ペーター・アルテンベルク

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ペーター・アルテンベルクPeter Altenberg、本名リヒャルト・エングレンダーRichard Engländer)、1859年3月9日 - 1919年1月8日)は「カフェ文士」として知られるオーストリアの作家。ユダヤ系。ペーター・アルテンベルクはペンネーム、略称は「ペー・アー」。

法学と医学を断片的に学んだのち、シュトゥットガルトで書籍商を試みたが挫折したといわれる。

ウィーン市内のホテルを定宿とし、「カフェ・ツェントラール」など市内のカフェハウスに入りびたって多くの作家と交友を結んだ。彼が自分の住所を「ウィーン1区、カフェ・ツェントラール」としていたことは知られる。

50歳をすぎても独身、頭は禿げあがっており、鼻眼鏡をかけ、格子縞の服に半ズボン、健康のためと称して素足に木のサンダルをはいており、製のステッキを常にたずさえていた彼は、当時のウィーンの名物男であった。また、彼は「人体飛行説」の信奉者であり、人は気持ちが高揚すれば飛行できるとして両腕を大きく広げて走りだすことがよくあったという。

このように、奇装・奇行で知られるアルテンベルクであったが、ウィーンの人々は彼を慕い、よく援助したという。


ファイル:Wien Cafe Central 2004.jpg
ウィーン「カフェ・ツェントラール」 (2004)

若いころのエゴン・フリーデルと連れだって、ともにウィーンの街をよく徘徊した。

作家としてはスケッチ風の短編に優れ、内容は情緒に富み、また印象主義的に表現した佳作が多いことで知られる。彼の作品は若きエゴン・フリーデルによってまとめられることが多かった。フリーデルはまた、1910年にアルテンベルクの伝記を書くよう、フィッシャーに依頼されている。日本では池内紀が「小品六つ」として紹介している。

アルバン・ベルクは、彼の詩に曲をつけて1912年に『アルテンベルク歌曲集』Op.4として発表した。

建築家アドルフ・ロースは彼の親友で、1919年のアルテンベルクの死に際し、みごとな送別の辞を書き、墓を造っている。

主な作品

  • 1896年 Wie ich es sehe(『私の見るままに』)
  • 1908年 Märchen des Lebens
  • 1919年 Mein Lebensabend

外部リンク

参考文献

  • 池内紀監修『読んで旅する世界の歴史と文化 オーストリア』新潮社、1995年5月、ISBN 4-10-601840-3
  • 池内紀『ウィーン世紀末文学選』、岩波書店<岩波文庫>、1989年10月、ISBN 4003245415
  • 宝木範義『ウィーン物語』新潮社<新潮選書>、1991年11月、ISBN 4-10-600408-9

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