大関増陽

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大関 増陽(おおせき ますはる、天明4年11月14日1784年12月25日) - 文化11年5月2日1814年6月19日))は、江戸時代後期の大名下野国黒羽藩の第10代藩主。

第9代藩主・大関増輔の長男。正室は大給松平近儔の娘。子に大関増儀(次男)。官位は従五位下、美作守。

寛政11年(1799年)10月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。享和2年(1802年)8月6日、父増輔の隠居により、家督を相続する。文化2年(1805年)、鍛冶橋門番を命じられる。文化3年(1806年)、大坂加番を命じられる。文化8年(1811年)11月24日、隠居し、養子増業に家督を譲る。

増陽の治世になると黒羽藩は財政が極度に悪化していたため、増陽は財政改革に乗り出した。ところが改革に失敗し、藩の保守的な家臣団から隠居を迫られた。増陽には子はいたが、重臣から養子として大関増業伊予国大洲藩加藤泰衑の八男)を迎えるように迫られた。これは、重臣たちが養子縁組のとき、多額の持参金をせしめるためだったと言われている。しかも、養子のほうが3歳年上という異例のものであった。

テンプレート:黒羽藩主