島津斉宣
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島津 斉宣(しまづ なりのぶ)は、江戸時代後期の島津氏第26代当主。薩摩藩の第9代藩主。天璋院(篤姫)の祖父にあたる。
生涯
安永2年12月6日、第8代藩主・島津重豪の長男として江戸で生まれる。母は中納言堤代長の娘。天明7年(1787年)1月、父・重豪の隠居により、家督を継いで第9代藩主となった(同時に将軍徳川家斉(正室が姉の広大院であり義兄にあたる)より偏諱を賜り、初名の忠堯(ただたか)から斉宣に改名する)。しかし実権は父・重豪に掌握されていた。
文化2年(1805年)12月には『亀鶴問答』を著し藩政改革の方針を示したが、父・重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題などから内紛(近思録崩れ)が起こる。これにより文化6年(1809年)6月、斉宣は重豪より近思録崩れの責任を問われ、長男の斉興に家督を譲らされて強制隠居させられた。
天保12年(1841年)10月、江戸の薩摩藩下屋敷にて死去。享年69。
人物
- 国学で有名な高山彦九郎と親交があった。
- 江戸に重豪、斉宣の2人の隠居を抱える薩摩藩の出費は莫大なもので、斉宣は経費が少なくて済む薩摩での隠居を度々幕府に願い出たが却下される。そのため隠居後は一度も薩摩に帰国出来なかった。却下理由については「御台所茂姫の命により、再び斉宣によって国元で近思録崩れのような騒動を起こさせないため」と明言した文書が残っており、姉・茂姫との仲は険悪だったようである。
- 父・重豪が孫・斉興に出した手紙で「問題があった時、江戸にいる時には奥平昌高に相談し、国元にいる時には島津忠厚に相談するように」(奥平昌高と島津忠厚は斉宣の弟であり、斉興の叔父にあたる)とあり、藩政からは徹底的に排除された模様である。しかし重豪が死ぬ直前には、在所の白金屋敷から重豪のいた高輪屋敷に移って看病しており、表面的には和解していたようである。
官歴
※月日は旧暦