チャム族
テンプレート:Infobox 民族 チャム族(チャムぞく、占族、ベトナム語: người Chăm 及び người Chàm)は、主にカンボジア及びベトナム中南部に居住する民族。
概要
2世紀から17世紀の間は独立した海洋国家、林邑国及び占城国(チャンパ王国)を持っていた。19世紀のベトナム阮朝は中部チャム族を占尼人、南部チャム族を藍人と呼んで区別した。1999年のベトナム社会主義共和国民族統計によれば、チャム族に属する民族集団は、ベトナム中部ビンディン省・フンイエン省にフロイ人(チャムフロイ人)が約1万人、中部ニントゥアン省・ビントゥアン省にチャム人が約10万人、南部タイニン省・アンザン省・ホーチミン市にイスラム人(チャムビラウ人)約2万人である。また、カンボジア国内にもクメール・イスラム人或いはマラユ人として約20万人が暮らしている。言語はチャム語を使用し、アカル・トラハ、アカル・リクなどいくつかの書体のチャム文字を持つ。チャム語支にはチャム族のほかジャライ、エデ、ラグライ、チュルーなどの山岳民族が含まれ、その話者人口は総勢100万人近い。このほか、チャム語を話すベト族のキンキュウ人、クメール語を話すスンニ派イスラム教徒のチャヴァクー人 / ジャワクル人や、宋代に中国海南島に移住した回族も広義のチャム族であり(en:Utsulの項目を参照)、現マレーシア連邦首相アブドラ・バダウィは近代に海南島からペナンに移ったチャム族(en:Abdullah Ahmad Badawiによると父方の曾祖母=父方の祖父の母)の後裔である。 タイ南端及びマレーシア北端のクランタン州周辺においても19世紀以後に移民したチャム族(イスラム人)が生活している。
宗教
チャム人の間に最初に広まった宗教は、ヒンドゥー教シヴァ派である(フランス人はこれを誤ってバラモン教と呼んだが、バラモン教の聖典リグ・ヴェーダにはシヴァ神は存在しない)。その後、西アジア商人がインドシナ半島に進出してくると、イスラム教が浸透した。チャム人が書くアラビア文字は縦書きであり、そのイスラム伝播は中央アジア・中国経由であると考えられる。ファンリ市郊外で発見された11-12世紀のアラビア語墓碑にはシーア派的色彩が濃く、また、チャム人の信仰においてはアリーが極めて重視され、預言者アリー(Ali Nabi, Ali Bin Abi の転化か)という類を見ない特殊な地位を占めており、その本来の宗派はシーア派とくにアラウィー派の可能性がある。シヴァ神は男神ポークロンガライ、ポーダム、ポーロメ、ポークロンムナイなど王家の祖先神と同一視され、女神ポーナガル、ポーシャーヌーなどと共にニントゥアン省・ビントゥアン省各地のチャンパ古塔においてアッラーへの祭祀と矛盾することなく祭祀が継続されている。現在のチャム人は依然としてシヴァの象徴であるリンガを祀るが、シヴァという神名を知らず、王家の祖先の象徴としてそれを祀っている。
チャム人のイスラムは慣習的な祖先信仰を尊重する穏健なものであり、その宗教職能者は、祖先祭祀を司るアヒエル(遅れて来た者)集団と、アッラー祭祀を司るアワル(先に来た者)集団に分けられる。アヒエル集団を輩出する共同体はアダット・チャム(占俗)、アワル集団を輩出する共同体はアダット・バニ(尼俗)と呼ばれる。チャム人の集落は必ず同じアダット共同体からなる。かつてはアダットの異なる者同士の結婚はタブーとされていたが、現在ではベト族などの異民族との通婚よりは歓迎される。また、山岳民族は同胞と考えられており、経済・文化格差による差別はあるものの、通婚は問題ないとされ、チャム人が山岳民族を養子にする伝統もある。ベトナム政府・共産党はアダット・チャムを土着バラモン教、アダット・バニを土着イスラム教という別個の宗教として認定した。しかし、これは、1970-80年代の社会主義建設にあたり共産党が民間信仰を著しく制限する中で、祭祀継続のためにチャム人が採った苦肉の策であり、いずれのアダットも本来は宗教ではなく民間信仰ないし慣習である。従って、宗教統計に見られるイスラム教系約80から85%、バラモン教系が約15から20%という数字は正しくない。キリスト教や大乗仏教に改宗して共同体から抜け出した人々を除けば、すべてのチャム人はアッラーを信仰する。アッラーに対する民間信仰は山岳民族のラグライ族・チュルー族(今はカトリック及びプロテスタント)にも見られる。
チャム人(アダット・チャム、アダット・バニ)及びラグライ族はアッラーを最高神と見なすものの、唯一絶対神とは見なさず、帰依も割礼も無い。また、その信仰実践は僧侶階級(アダット・バニ共同体の住民が輩出するアワル集団)が代行する。アダット・バニの一般人は六信五行を行わず、酒も豚肉もある程度許容される。タイニン省・アンジャン省のイスラム人及びカンボジア領内のクメールイスラム人(カンボジア・チャム族)は90%以上がスンニ派の信仰をもち、ニントゥアン省・ビントゥアン省のチャム人とくにアダット・バニのアッラー信仰を異端・背教・不信心と決め付け、1960年代にスンニ派への改宗を迫る折伏を行った過去がある。カンボジアでは、激しい宗教弾圧を行ったポル・ポト(クメール・ルージュ)政権下で多くのチャム族が虐殺されたが、犠牲になったチャム族はスンニ派のいわゆるイスラム人だけであり、アダット・バニの人々は不信心者と見なされて、虐殺を免れたといわれる。
文化
チャム族はマレー系、インドネシア系の民族である。同じマレー系の民族の中では、メラネシア人やミナンカバウ人が母系制度を採ることで知られるが、チャム族(フロイ人、チャム人、イスラム人)及びチャム系山岳民族(ジャライ族、エデ族、ラグライ族、チュルー族)もまた母系制度を採る。家・財産を守るのは女性の役目である。結婚後は、夫が妻方の住居に入る。従って、家督や母系氏族名も王族を始めとして女性の子孫が引き継ぐ。ただし、ベト族(キン人)に倣ってつけた漢字姓の継承については、1975年の共産化以前は双系制(男は父の姓を、女は母の姓を継ぐ)であったが、今は漢字姓の継承は父系制が普通である。例えば、王族の姓は本来グエン(阮氏)であり、王家の当主はグエン・ティ・ダオ(阮氏道)女王であるが、次期女王は彼女の父(女王の夫)の姓であるロー(盧氏)を継ぐロー・グエン・フオン・ジエム(盧阮香艶)王女である。このように、漢語の姓だけを見ると王家が交替したように見えるが、母系相続は不変であるため、王家がポークロンムナイ家という母系氏族であることに変わりは無い。
研究
近代におけるチャム族の研究は1830年代に明命帝が置いた四訳館におけるチャム語学習を嚆矢とし、チュオン・ヴィン・キー(張永記)の仏文・漢文二か国語書目の中に19世紀末のチャム語教科書が挙げられている。近代的辞書の編纂と人類学的研究はチャム族女性と結婚したフランス軍人エーモニエによって1885年ごろから始められ、カバトン、デューラン、ミュスらフランス人による写本研究と人類学調査の成果を対照した優れた研究報告がある。1975年以後、ファン・ラク・トエン、ファン・アン、ファン・スアン・ビエン、ファン・ヴァン・ゾップらベト族人類学者もまた精緻な人類学研究報告を公刊したが、彼らはチャム語・チャム文字を読むことができず、チャム写本との対照がなされていない。