宋楚瑜
テンプレート:中華圏の人物 宋 楚瑜(そう そゆ、1942年3月16日 - )は中華民国(台湾)の政治家。親民党主席。
経歴
政治家としての出世
中国湖南省湘潭県(毛沢東の故郷)生まれの外省人。戦後国民政府の台湾撤退に伴い家族とともに台湾へ移住、台北県内の眷村(外省人居住区)で育つ。国立政治大学卒業後、米国カリフォルニア大学バークレー校にて政治学修士号を67年に、ジョージタウン大学にて政治学博士号を74年に取得。帰国後、大学教員を務めていた時に当時総統だった蒋経国に請われ、英文秘書として政界入りする。その後蒋経国の側近として行政院新聞局副局長、同局長などを歴任した。当時最も期待されていた中国国民党若手官僚のひとり。
1988年7月に行われた蒋経国国民党主席の後継者を選出する国民党党員代表大会では、党副秘書長として秘書長の李煥とともに党内工作に従事、李登輝の国民党代理主席就任(後に党主席に就任)に大きな貢献を果たす。その成果を買われて1989年に国民党中央委員会秘書長に就任、以後、台湾省主席(1993年)、台湾省長(1994年、初代民選省長)などを歴任、李登輝政権下で李登輝の片腕として活躍した。
台湾省長時代には地方への利益還元型(いわゆる「ばらまき」)行政を展開したこと、野球帽にジャンパーというスタイル(これは、蒋経国の地方巡視の際のスタイルをそのまま踏襲したもの)で全国各地を回るといったパフォーマンスを行ったことなどで、台湾住民から高い支持を得ていた。その後台湾省政府簡素化を巡って李登輝と反目。1996年に国家発展会議で台湾省政府の機能凍結が合意されたことを受け辞表を提出する(ただし辞表は受理されず、1998年12月最終的に台湾省政府が凍結されるまで省長を務めた。その後2000年総統選挙への立候補を表明したことにより、国民党から党籍を剥奪される)。
総統選挙
2000年の台湾総統選挙では無所属で立候補、陳水扁、連戦と三つ巴の激しい選挙戦を展開した。台湾省長時代に築いた人気から序盤の選挙戦を有利に進めたものの、選挙戦中盤である1999年12月に国民党中央委員会秘書長時代の金銭スキャンダル(中興証券事件[1])が報じられたこと、連戦と保守層の票を食い合う結果になったことなどの理由で、陳水扁に僅差で敗れる(陳水扁得票率39.30%、宋楚瑜37.84%、連戦23.10%)。選挙後、次期総統選をにらんで同年親民党を立ち上げ、党首に就任。
2004年の台湾総統選挙では国民党主席の連戦と組み、副総統候補として出馬(いわゆる「連・宋コンビ」)するが、連戦の不人気や選挙戦終盤の陳水扁襲撃事件に対する同情票として浮動票が陳水扁陣営に流れたことなどが原因で、再び僅差で落選する(陳水扁陣営の得票率50.11%、連戦陣営の得票率49.89%票差約3万票)。
引退宣言
2006年12月9日に行われた台北市長選挙に出馬したが、得票率4.14%と予想外の大敗を喫し、選挙後の記者会見で台湾政界からの引退を表明した。
総統選再出馬
2011年1月の李登輝元総統の誕生日パーティーに出席したことが注目を浴びた[2]。その後、馬英九総統と蔡英文民進党主席の争いとなった2012年総統選への出馬を取り沙汰されるようになり、2011年9月「100万人以上の署名」が集まれば出馬するとの意向を表明し[3]、その後正式に立候補を届け出、中央選挙委員会から正式候補者として認定された。台湾大学教授(公共衛生学)の林瑞雄を副総統候補として再び馬に挑んだが、結果は惨敗であった(馬英九陣営の得票率51.60%、宋楚瑜陣営が2.77%)。
人物
総統選に関する限り、これまで結果にはつながっていないが、従来から人心掌握術や政治的パフォーマンスに長けており、台湾省長時代には圧倒的な人気を誇った。また、その選挙戦術にはかねてから実績があり、マスコミ関係者にも太いパイプを持っている。
脚註
参考文献
- 本田善彦『台湾総統列伝』中央公論新社、2004年、ISBN 4121501322
- 杉江弘充『知っていそうで知らない台湾』平凡社、2001年、ISBN 4582851002
- 柳本通彦『台湾革命 緊迫!台湾海峡の21世紀』集英社、2000年、ISBN 4087200604
- 林志考『図解 台湾のしくみ』中経出版、2000年、ISBN 4806113263