横浜中華街
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横浜中華街(よこはまちゅうかがい)は、神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウン(中華街)である。1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、中国各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当該地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割にあたる。
約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。日本では、神戸南京町や長崎新地中華街とともに三大中華街とされる。
1866年(慶応2年)の横浜新田慰留地から数えると150年弱の歴史をもつことになる。
歴史
1859年(安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった[1]。その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。初期の埋め立て地「横浜新田」の海岸線沿いに建てられたため、この地域のみ区画が約45°ずれている[2]。この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかった。1872年(明治5年)には、柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていた[1]。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまうが、戦争が終わり、1899年(明治32年)に条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。袁世凱に追われ日本に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。
ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。例えば1921年(大正10年)の横浜市商工案内によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であった。一方1910年(明治43年)の『名誉鑑』では有名な広東料理店として5軒を挙げており、1900年(明治33年)以降一挙に中華料理店が増えた(『横浜中華街』p83)。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化した。欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。1930年代には完全に復興し、賑わいを見せた。1932年(昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとしている。1934年(昭和9年)7月23日の『横浜貿易新報』では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介している。しかし、1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多い。
戦後の復興期に横浜港は賑わい、香港との往来も復活した。戦勝国である中国からの物資に恵まれ、1946年(昭和21年)2月20日の『神奈川新聞』によれば中華街で営業していた飲食店は96軒であった。
1955年(昭和30年)には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになった[3]。1972年(昭和47年)に日中国交正常化が実現した年に高橋柢祐氏を初代理事長に迎えた街づくりへの志を同じくする者が集う横浜中華街発展会協同組合が発足した。ハードウェア、ソフトウェア面での整備が進められたことで日本人が多数来場するようになり、観光地として発展していった。牌楼門は1989年(平成元年)に建替えられ「親仁善隣」を掲げる現在の「善隣門」となった。
2004年(平成16年)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい21線が開業し、終着駅として元町・中華街駅が設置された。駅の名称に「中華街」が入り、東京の渋谷駅から東急東横線の電車が直通運転されることで、中華街のアクセス状況や知名度はさらに向上した。
2004年(平成16年)8月1日より、電子マネー「Edy」を飲食の支払いに利用できるようにし、利便性の向上を図った[4]。
2006年(平成18年)3月17日に、開廟した横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新しい観光スポットとして横浜中華街に誕生した、台湾最初の官建の台南市大天后宮より分霊された。媽祖は140年前に清国領事館と関帝廟に祀られていたとの記述が残されており、横浜中華街では古くから信仰を得ている。
2007年(平成19年)から2008年(平成20年)にかけては中国製品の安全性問題、中国産食品の安全性が世界的に大きな問題となり、中華街でも風評被害が原因で売り上げが減少した[5]。
2009年(平成21年)7月1日より公道を利用した不法なビラ配り、栗販売、露店を改善するため、街づくり団体連合協議会が定めた横浜中華街「街づくり協定」のルールに基づいたパトロールが横浜中華街発展会協同組合によって実施された。安心して来街者が楽しめる環境作りに取り組んでいる。
牌楼建設(戦後復興への願いを込めて)
昭和二十九年九月十日、日本で初めて牌楼建設工事が着手された。 当時の平沼亮三横浜市長と半井清(なからいきよし)横浜商工会議所会頭は、アメリカを視察し、
横浜の戦後復興の一策として、横浜中華街を戦前の様な特徴ある街に再建し観光の呼び水とすることが必要だと提唱した。 この呼びかけに地元華僑が共鳴し、神奈川県と横浜市、横浜商工会議所などが協力して、牌楼建設の計画が持ち上がった。
こうした動きの中心となったのが、当時の横浜華僑総会の会長薛来宏、留日広東会館会長龐柱琛、陳洞庭ら横浜華僑と横浜の日中両国人の親睦団体である日中協会常務委員の金子光和である。牌楼門建設委員会の会長に推挙された金子は建設のために、寄付金集め、設計案の調整、中華街側と役所側との橋渡しと東奔西走の活躍をした。その甲斐あって地元華僑や日本人の有志八十余名の寄付金と、神奈川県と横浜市からの助成金をあわせ、百三十三万円あまりの資金が集まった。
昭和二十九年八月十七日に地鎮祭が行われ、九月十日に工事が着手。そして翌年に鉄筋コンクリート建て、高さ十三メートル、幅十八メートルの極彩色の中国牌楼が完成した。門には、「春秋左氏傳」から引用した「親仁善隣」の言葉を刻んだ額が掲げられた。
そして二月二日に内山岩太郎神奈川県知事、孫秉乾中華民国総領事、平沼市長、半井商工会議所会頭らを来賓に招き、盛大な完工式が取り行われた。昭和二十九年、戦後復興への願いを込めて牌楼が建設され、その後東西南北の門が造られていった。そして初代牌楼から四十年後、中華街では四つの牌楼(朝陽門、延平門、朱雀門、玄武門)の改築が進められた。
中華街の祭り
- 春節 旧正月(1 - 2月) 中国の正月、中国で最も賑やかな祭りである。
- 元宵節 旧暦1月15日
- 媽祖誕 旧暦3月23日(4月頃)
- 清明節 旧暦4月5日(5月頃) お墓参り
- 関帝誕 旧暦6月24日(7 - 8月) 商売の神様、関帝の誕生日。
- 仲秋節(十五夜)旧暦8月15日
- 横浜中華街文化フェアー灯籠會/灯籠祭 8 - 10月
- 横浜中華街ランタンフェスティバル/きたもん祭 9月19日 - 9月21日
- 中華人民共和国国慶節 10月1日
- 中華民国国慶日 10月10日
- チャイナタウンフードフェスティバル(CFF)/美食節 11月頃
交通
- 鉄道
カッコ内は最寄りの牌楼
- 横浜高速鉄道 みなとみらい21線・日本大通り駅(善隣門・玄武門)
- 横浜高速鉄道 みなとみらい21線・元町・中華街駅(朝陽門・朱雀門)
- JR根岸線・石川町駅(西陽門・延平門)
- JR根岸線・横浜市営地下鉄ブルーライン・関内駅(玄武門)
- 中華街停留所(ローズホテル横浜前):観光周遊バス「あかいくつ」
- 中華街入口停留所(朝陽門):2系統・8系統・20系統・58系統・109系統(日中のみ)・148系統
- 吉浜橋停留所(延平門):99系統・101系統・105系統・106系統
- 薩摩町中区役所前(玄武門):21系統・158系統
- 中華街入口停留所:11系統(YAMATE LINER)
- 自動車
- 本牧ふ頭方面から:石川町JCT右折後、横浜公園出口で降りる。出口左折後、不老町交差点を左折、扇町一丁目を左折、大桟橋通りを直進。右手に玄武門で右折
- 横浜駅東口方面から:横浜公園出入口の右側の分岐出口に降りる。出口直進後、大桟橋通り直進。右手に玄武門で右折
- 横浜横須賀道路方面から:山下町出口左折後、前田橋右折
舞台となった作品
※発表順
- 映画
- カミカゼ野郎 真昼の決斗 (1966年)
- やくざ刑事 (1970年)
- またまたあぶない刑事 (1988年)
- テレビドラマ
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
テンプレート:横浜市の地域- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite book
- ↑ 『ブラタモリ』「横浜」(2009年12月17日放送)
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite press release
- ↑ テンプレート:Cite news