永井尚政
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テンプレート:基礎情報 武士 永井 尚政(ながい なおまさ)は、江戸時代前期の大名。上総潤井戸藩主、下総古河藩第2代藩主、山城淀藩初代藩主。永井家宗家2代。
東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する。
生涯
永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605年)4月26日、叙爵して信濃守を称した。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件で本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である下総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重や土井利勝らと協力して、増上寺に秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。
寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城国淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都や大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。正保元年(1644年)11月23日、従四位下にのぼった。明暦4年(1658年)2月28日に致仕。後に入道して信斎と号した。