那須資晴
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那須 資晴(なす すけはる)は、安土桃山時代の下野国の戦国大名。
概要
天正6年(1578年)、小川台の戦いで父と共に出陣。天正11年(1583年)、父・資胤が死去。その直後、佐竹義重と争ってこれを撃退した。天正13年(1585年)には、塩谷義綱攻撃のため薄葉原に進出し、宇都宮氏・塩谷氏の軍を破っている。同年暮れには大関高増による千本資俊暗殺計画を了承して千本氏の勢力を解体した。その後、資晴は佐竹氏や結城氏、宇都宮氏と敵対しながらも北条氏、そして伊達政宗などと手を結び、常に那須軍は寡兵ながらも奮戦した。豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、これに敵対姿勢を見せる。
その結果、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、改易となったが、重臣・大田原晴清の陳謝により、資晴の子・那須資景に5000石の所領が与えられ、那須氏の存続は許された。一説には奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを恐れたからだとも言われている。
その後、秀吉より罪を許され、資晴自身にも5000石が与えられて、文禄の役においても名護屋城を守備している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは息子資景が東軍に属して加増を受けた。慶長7年(1602年)には資晴も徳川家康の御伽衆に抜粋され1000石を加増されて、その所領は6000石となった。慶長15年(1610年)に死去。なお、子の資景は、資晴の遺領も合わせて石高が1万4000石に達し、那須藩を立藩、養子・那須資弥(すけみつ)の代に資晴の悲願であったと言われている旧領烏山城に復帰している。