武田信豊 (甲斐武田氏)
武田 信豊(たけだ のぶとよ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の一族で庶流の吉田氏を継いだ武田信繁の次男。武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる。父・信繁が第4次川中島の戦いで戦死し、望月家に養子に入っていた兄・義勝(望月信頼)も父の死の直後に早世したため、信豊が跡を継ぐ。
生涯
天文18年(1549年)、甲斐国主武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。生年は『当代記』に記される享年34より逆算。信繁には3人の男子があるが、信豊の2歳年長の兄である義勝は信濃国望月氏の名跡を継いで望月信頼として親類衆となっており、信豊の母が正室であったため嫡男として扱われていたと考えられている(黒田基樹による)。
永禄4年(1561年)、第4次川中島の戦いにおいて父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する。なお、望月氏は、信頼(武田義勝)が第4次川中島の戦いの直後に死去しており(病死とも戦傷死ともいわれる)、信繁の三男で信頼と信豊の弟・信永が継承している。
永禄10年(1567年)、武田家では信玄の嫡男である義信が廃嫡される義信事件が起こる。これに際して家臣団の動揺を統制するため行われた生島足島神社への起請文があり、これが信豊の初見文書となっており、親族衆では信豊と叔父にあたる信廉が起請文を提出している。義信事件の後、元亀2年(1571年)には信豊にとって従兄にあたる諏訪勝頼(武田勝頼)が世子と定められ、『甲陽軍鑑』によれば信豊は武田家臣団において穴山信君とともに勝頼を補佐する立場にあったという。信玄後期の駿河侵攻や元亀3年(1572年)の西上作戦では信濃高遠城在番を務めている。一説に、麾下の軍装は黒揃えであったと伝わる。
なお、武田家における信豊の立場の基盤として信豊が東信支配の拠点となっていた信濃小諸城主であるとする説が支配的であったが、小諸領支配を示す文書は見られない。また、『信長公記』『甲乱記』『軍鑑』ではいずれも小諸城主は下曽根氏としており、武田氏滅亡に際して信豊が小諸城に逃れたことを記している。
勝頼期には、天正3年(1575年)、三河黒瀬(現在の愛知県新城市作手黒瀬)にて、作手の国人である奥平貞能・貞昌父子の動向を監視したり、長篠の戦いでは左翼4番手として出陣したものの、武田方の劣勢を察して早々に退却をしている。このことは、勝頼以上に高坂昌信の怒りを買い、6月半ばに昌信が勝頼に提出した意見書5箇条の内の1つに、「典厩(武田信豊)に穴山(信豊と同様に戦線離脱した穴山信君)の腹を切らせるよう仰せられ、某に典厩に切腹を申し付けるよう仰せ下さい」と意見した程であったという。
勝頼期には将軍足利義昭の周旋した相模・越後との同盟では、交渉を担当している。上杉謙信の死後に起きた御館の乱では、はじめ上杉景虎支援を目的に信越国境へ派遣されたものの、のちに乱を制した上杉景勝との甲越同盟では取次役を務めている。天正9年(1581年)、『軍鑑』によればこの年に勝頼は穴山信君と約束していた信君の嫡男勝千代と次女の婚約を破棄し、信豊の子と婚約させたという。
天正10年(1582年)3月、木曾谷領主木曾義昌が織田信長へ内通して武田氏に反旗を翻した。武田勝頼は信豊を将とする討伐軍を木曾谷へ派遣するが、信豊は織田信忠の援軍を得た木曾によって鳥居峠にて敗北する。『信長公記』『甲乱記』に拠れば、この敗北を契機とした甲州征伐において、信豊は家臣20騎程と共に小諸城へ逃れて再起を図った。しかし城代の下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男や生母、家臣とともに自害した。享年34。
信豊の首は勝頼、仁科盛信の首級とともに長谷川宗仁によって京都に輸送され、獄門にかけられた後に妙心寺に葬られた。長野県阿智村にある頭権現(大平神社)の御神体は頭蓋骨で、信豊のものという説もある。
人物
『甲乱記』では信豊は従兄の勝頼と同世代で親しく、勝頼期の政権を補佐する立場にいた人物としている。また、『軍鑑』『武田三代軍記』では「武田の副将」との立場を記している。
父・信繁と通称が同じ典厩のため、父は古典厩(こてんきゅう)、信豊は単に典厩または後典厩(ごてんきゅう)と呼ばれている。
参考文献
- 黒田基樹「親族衆武田信豊の研究」『甲斐路61』