足利義嗣
足利 義嗣(あしかが よしつぐ)は、室町時代の足利将軍家の人物。室町幕府3代将軍足利義満の次男で、4代将軍足利義持の弟にあたる。
生涯
応永元年(1394年)、足利義満の次男として生まれる。幼名鶴若丸。同年、父義満は兄義持に将軍職を譲った。義嗣は、嫡男以外は出家させる慣例に従って梶井門跡に入室したが、義満は応永15年(1408年)に家の定めを破って義嗣を還俗させた。義嗣は義満に溺愛され、北山第に住むことになった。
同年3月4日、元服前に異例の任官をして従五位下に叙せられる。次いで後小松天皇が北山第に行幸した際に天盃を下賜される。行幸中の3月24日、正五位下左馬頭に叙任、さらに同月28日には従四位下に叙せられ、翌日、還幸のお礼言上に参内して左近衛中将に昇任した。同年4月25日、宮中で内大臣が加冠する親王並の形式で元服して、従三位参議に任官した。
同年5月に義満が死去すると、義満にないがしろにされていた義持によって、義嗣と生母春日局は北山第から追放されるなど冷遇されたが、同年7月23日には権中納言に任官した。翌応永16年(1409年)1月5日には正三位、応永18年(1411年)11月21日に従二位、同月25日には権大納言、応永21年(1414年)1月5日には正二位に叙せられる。
その後、不和であった将軍義持を打倒するため、伊勢国の北畠氏と結んで挙兵しようとするが失敗する。応永23年(1416年)に鎌倉府において義嗣の妾の父である前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏を襲撃する上杉禅秀の乱が起こった際、京都では義嗣は出奔する騒動を起こしていた。幕府は義嗣の乱への関与を疑って義嗣や近臣を捕らえ、義嗣は仁和寺、次いで相国寺へ幽閉されて10月20日に出家させられた。
応永25年(1418年)1月24日、義嗣は義持の命を受けた富樫満成により殺害された。享年25。遺子(嗣子)である嗣俊(つぐとし)は越前に下り、鞍谷公方として栄えた。
容姿端麗で才気があり、笙の演奏では天才的だったと伝わる。義嗣の異例の昇進を見て、義満が義嗣を後継者と考えていると予測した武将や公家も多かったようである。義満の皇位簒奪の意図を指摘する論者は、義満が自らは太上天皇の尊号を受け「治天の君」となり、義嗣を天皇の位につけようとしたと推測している。
関連項目
- 鞍谷氏(義嗣流)