箕子朝鮮
テンプレート:基礎情報 過去の国 テンプレート:Infobox 箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)とは、中国の殷に出自を持つ[1]箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。いわゆる古朝鮮の一つ。首都は王険城(現在の平壌)。『三国志』魏志書、『魏略』逸文などに具体的な記述がある。
概要
『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は、中国の殷王朝28代文丁の子で、太師となるに及び、甥の帝辛(紂王)の暴政を諌めた賢人であった。殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条(八条禁法)」を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという。
建国後の動向はほとんど伝わらない。『魏略』の逸文によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲したが、東周が衰退すると王を僭称するようになり、周王朝を尊んで燕を攻撃しようとした大夫礼[2]が朝鮮王を諌めたので、王は攻撃を中止して、逆に燕に礼(人名)を派遣したので燕は朝鮮を攻めるようなことはなかった。(そのため)子孫は驕慢になり、燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里の領土を奪われ[3]、満潘汗[4]を国境に定めた。これで朝鮮はついに弱体化した。秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。ところが紀元前195年、燕王盧綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来た。衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し王権を簒奪して、衛氏朝鮮を興した。ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる。『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満に敗れた準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻めて韓王となったというが、これは3世紀頃、楽浪郡の韓氏による系譜の装飾との説がある。
作られた王統
このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され、箕子は朝鮮族の始祖として顕彰されるとともに、箕子宮・箕子陵・箕子井田などの古跡が盛んに造作された。李氏朝鮮後期に族譜の作成が盛んになると、韓氏によって箕子朝鮮の王統なるものも創作され、その内容は『盎葉記』(李徳懋)や『清州韓氏族譜』などに見える。ここでは後者を参考に一覧(カッコ内は諱)を示す。
- 記録された歴代の王[5]
- 文聖王(胥余)
- 荘恵王(松)
- 敬孝王(詢)
- 恭貞王(伯)
- 文武王(椿)
- 太原王(礼)
- 景昌王(荘)
- 興平王(捉)
- 哲威王(調)
- 宣恵王(索)
- 誼襄王(師)
- 文恵王(炎)
- 盛徳王(越)
- 悼懐王(職)
- 文烈王(優)
- 昌国王(睦)
- 武成王(平)
- 貞敬王(闕)
- 楽成王(懐)
- 孝宗王(存)
- 天老王(孝)
- 修道王(立)
- 徽襄王(通)
- 奉日王(参)
- 徳昌王(僅)
- 寿聖王(翔)
- 英傑王(藜)
- 逸民王(岡)
- 済世王(混)
- 清国王(璧)
- 導国王(澄)
- 赫聖王(18px)
- 和羅王(謂)
- 説文王(賀)
- 慶順王(華)
- 嘉徳王(詡)
- 三老王(煜)
- 顕文王(釈)
- 章平王(潤)
- 宗統王(丕)
- 哀 王(準)
※18pxは[階-皆+雋]。『盎葉記』は「隲」に作る。
各国の見解
現在の韓国の学界では後世の創作として否定しているが、中国の学界では実在したと考えられており、真っ向から対立する。[6]日本の学界では意見が割れており、史料にあらわれる記録は実在の要素と架空の要素が入り混じっているとする説と、周時代(前11世紀)頃から朝鮮半島西北部に中国人が一定の集団をなして定住したと思われる周様式に酷似した出土物の顕著な増加を認め大筋に於いて信憑性を認めようとする説とがある。日本の学界は架空性を重視する者でも韓国史学界のような全くの創造とは見倣さず、中国からの移民集団の存在を認める点では日本の学界は中国に近い。
檀君神話への傾斜
これほど信奉された箕子朝鮮であったが、民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、中国人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。中国と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。なお、2010年3月、日韓関係史につき調査・研究を行うために、日韓双方の学者・専門家によって構成された日韓歴史共同研究委員会において、メンバーである井上直樹は、韓国の教科書が朝鮮民族の始祖とされる檀君の神話をそのまま認めるような記述をしているのは、資料考証に基づく結論なのか疑問、と指摘している[7]。
東北工程と箕子朝鮮
中国社会科学院の中国辺疆史地研究センターを中心に「古朝鮮・高句麗・扶余・渤海は中国の地方政権であり、その歴史は中国史の一部」という“東北工程”の史観に対して韓国は大きく反発している。「高句麗の住民は中国の少数民族であって韓国とは無関係である」とか、また箕子朝鮮については「箕子の存在を殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認することができ、(中国人である箕子が)朝鮮半島に最初の地方政権を建てた」と漢人創始を強調するなど、その内容が実証的であるとしても朝鮮半島の人々にとって面白いものではない。
韓国文化財庁は、「韓民族の歴史が(満州などの)東北地域につながっているという事実とそれを主張する『縁故権』を払拭するために開始されたもの」という韓国独自の朝鮮民族史観を主張して大きく反発した。
中国側は、北京大学教授の歴史学者である宋成有が以下のように述べる。 「1910年に日本が朝鮮半島に侵入した後に、韓国の歴史学者で亡命して中国に来たものたちは、侵略に抵抗するためナショナリズムを喚起し、歴史の中からそのような傾向をくみ取って、韓国の独立性を強調した。それらは韓国の歴史学界の中の民族主義史学の流派へと発展した。1948年の大韓民国創立の後、民族主義史学は韓国の大学の歴史学の三大流派の一つになったが、民間のアマチュア史学や神話や伝承や講談などの作り物と、真実とを混同して、社会的な扇動におおきな力を振るっている」。”[8]
別名
李丙燾は「箕準が馬韓にやってきて姓を箕氏から韓氏にかえた」という『魏略』の記事を独自に解釈して、箕氏ではなく最初からもともと韓氏だったとして韓氏朝鮮と名付けた。[9]また『桓檀古記』と並ぶ近代の偽書『檀奇古史』も、箕子朝鮮は存在せず、かわりに中国人である箕子とは関係のない奇市朝鮮という国があったとしている。
脚注
関連項目
テンプレート:Asbox- ↑ 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする。
- ↑ 大夫の礼(人名)。礼は人名であるが礼儀をわきまえた徳のある人という寓話とみる説がある。
- ↑ 実際に秦開が戦ったのは東の朝鮮ではなく燕からみて北の東胡であった。
- ↑ 平安北道の博川江の西岸
- ↑ 国家知識ポータル韓国古典翻訳院 - 箕子朝鮮世系
- ↑ [韓中 고대史 전쟁]<12> 동북공정의 논리 ⑧ 고조선도 중국史
- ↑ 日韓歴史研究報告書の要旨[1]
- ↑ 中国边疆史学争议频发
- ↑ 史學界(사학계)에 貢獻(공헌) 李丙燾(이병도)