ムジブル・ラフマン
シェイク・ムジブル・ラフマン(Sheikh Mujibur Rahman、1920年3月17日-1975年8月15日)またの名をバンガバンドゥ・シェイク・ムジブは、東パキスタンにおけるベンガル人政治指導者。バングラデシュ大統領(初・4代)、首相を歴任した。 日本のメディア報道では「ムジブル・ラーマン」と表記されている。
概要
ムジブル・ラフマンの政治活動はパキスタン独立とともにはじまる。東パキスタンムスリム学生連盟のちにアワミ連盟を1950年代に結成した(第2代)。両団体はともに東パキスタンにより大きな自治を獲得するために活動した。当時のパキスタンは西パキスタンと東パキスタンに分かれており、1600km 以上はなれた西パキスタンが主導権を握っていた。このため言語と文化の異なる東パキスタンには大きな不満があった。
1970年パキスタン国会総選挙で、アワミ連盟は東パキスタンに割り当てられた162議席中、160を獲得した。この高い支持率を背景として、ムジブル・ラフマンは東パキスタンがより大きな自治権をもつことを要求した。これはパキスタンが東西二州からなる連邦制国家へ移行することを含んでいた。しかしこの構想は破綻し、両パキスタンの緊張は、西パキスタンで使われるウルドゥ語をパキスタンの唯一の公用語とする試みによって激化した。東パキスタンではほとんどの住民がベンガル語を使っていたからである。東パキスタンでの民衆の権利を訴える運動に呼応して、ラフマンはパキスタン政府への非協力を呼びかけた。
パキスタン政府は戒厳令を敷き、軍を東パキスタンに派遣して西パキスタン独立派を弾圧、虐殺した。1971年3月、両パキスタンは戦争状態に突入、バングラデシュ独立戦争の幕が開けた。東パキスタン住民はインドに大量に亡命したことから、インド政府は東パキスタン側につく形で介入、第三次印パ戦争が勃発した。その間に、ラフマンは逮捕され、その支持者はインドへ逃亡した。逃亡先で支持者たちは将来独立国家の政府となるべき準備政府を組織した。戦争はインド・東パキスタン有利に進み、1971年12月に東パキスタンに駐留していたパキスタン軍は投降し、東パキスタンの独立が宣言された。1972年1月12日、ムジブル・ラフマンは独立したバングラデシュの首相となった。1972年7月2日には、テンプレート:仮リンクによりパキスタンがバングラデシュ独立を承認し、名実ともにバングラデシュは独立を達成した。
独立時のバングラデシュは、9ヶ月におよぶ内戦のために混乱していた。パキスタン政府とその支持者は各地で虐殺を行っていたとされる。ムジブル・ラフマンは排他的な政策によって秩序を回復しようとしたが、事態は改善されなかった。ラフマンは戒厳令を宣言し、自ら大統領就任を宣言し、新たに組織されたばかりのバングラデシュ・クリシャク・スラミーク・アワミ連盟を除くすべての政党の解党を命令した。しかし国政は改善せず、飢餓と疾病が広がっていった。
1975年8月15日、シェイク・ムジブル・ラフマンは家族とともに陸軍部隊によりダッカで殺害された。後任として、前商業・土地収益大臣であったカンデカル・モシュタク・アーメッドが就任した。アーメッドはラフマンの暗殺を計画したひとりであった。
死後
1996年~2001年と2009年1月6日~、ラフマンの娘にあたるシェイク・ハシナが、バングラデシュの首相に選ばれ、就任した。
暗殺から34年経った2009年の11月、最高裁判所は暗殺実行犯である元軍将校12人全員(国外逃亡者、死亡者含む)に対して死刑の判決を言い渡した。
シェイク・ハシナによると、バングラデシュの国旗を制定するとき、ラフマンは日本の日の丸を参考にしたという[1]。
脚注
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
(建国)
テンプレート:仮リンク
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon バングラデシュ人民共和国大統領
初代:1971 - 1972
第4代:1975
|style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク
テンプレート:仮リンク
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
テンプレート:仮リンク
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon バングラデシュ人民共和国首相
第2代:1972 - 1975
|style="width:30%"|次代:
テンプレート:仮リンク
- 転送 Template:End