志村正順
テンプレート:基礎情報 アナウンサー 志村 正順(しむら せいじゅん、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、NHKの元アナウンサー。旧名は正順(まさより)。
人物
大正大学予科を経て明治大学政治経済学部を卒業後、1936年入局。
入局後はスポーツ中継、特に大相撲・プロ野球の実況中継を担当した。スポーツ以外では1943年10月21日の出陣学徒壮行会の実況放送[1]、1953年2月1日のNHKテレビ開局アナウンスも担当したことでも知られる。
1952年のヘルシンキオリンピックの実況中継を担当したあと、帰国する前にニューヨークへ立ち寄ってメジャーリーグ観戦をした。実況中継にジョー・ディマジオが解説を加えている様子を見たことで、帰国後に解説者を置くことを発案したところ幹部に受け入れられ、小西得郎との名コンビで数多くの名勝負の実況に立ち会った。
1959年6月25日の東京読売巨人軍‐大阪タイガース(後楽園球場)では日本初の天覧試合が開かれ、長嶋茂雄のサヨナラ本塁打も志村が実況したものである。
1960年、前年の天覧試合の実況の途中で声が出なくなってしまったことで体力の限界を悟り、第一線から退いた後はアナウンス室長などを歴任した。
2003年2月1日のテレビ放送開始50年の特別番組でも、1953年2月1日の開局当時のアナウンスを当時使用されていた1950 - 60年代の白黒テレビカメラ(4:3SD)を用いて再現した。
2005年には野球殿堂の特別表彰者に選出された。放送関係者の野球殿堂入りは史上初だった。
2007年12月1日、老衰のため神奈川県藤沢市の病院で死去、テンプレート:没年齢。訃報は4ヶ月後の2008年4月24日に公表されたほか、志村の遺体は本人の遺言によって医学研究のために献体された。
エピソード
- 僧侶を志して出家した際に、名の読みを「まさより」から「せいじゅん」に改めた。還俗したのちも「せいじゅん」で通した。
- 1943年10月21日の出陣学徒壮行会の実況放送の時に、当初担当する予定だった和田信賢が二日酔いで担当できないとして、放送開始10分前に「志村、お前が(実況を)やれ」と言われて急遽実況席に座ったと語っている。和田はこの頃から体調不良が続く。[2]
- 1947年6月7日の大相撲夏場所(明治神宮外苑相撲場、晴天10日間開催)4日目、取組を開始すると休場力士が続出して観客もまばらだった。調べたところ、何らかの手違いでNHKニュースで志村が「本日の大相撲は中止」と放送していたことがわかり、晴天ながら急遽入れ掛けとなった。
- 2003年のテレビ放送開始50年の特別番組では、1953年当時は狭いスタジオで白黒テレビカメラは暗い場合に映像が映らないことから、明るい照明を当てられてとても眩しかったと語った。
- 志村に指導を受けた西田善夫によれば、「100の試合を見て、一つの試合を喋れるようにしなさい」と教えられたという。[3]
過去の出演番組
- 各種スポーツ中継全般
参考文献
- 尾嶋義之『志村正順のラジオ・デイズ-〈スポーツの語り部〉が伝えた昭和』、洋泉社、1998年8月 ISBN 4-89691-329-9(のち、『志村正順のラジオ・デイズ』の標題で新潮文庫に収録、2001年5月 ISBN 4-10-128031-2)
関連項目
- 松内則三 - 同時期に活躍した日本放送協会アナウンサー。志村の11年先輩。
- 山本照 - 同時期に活躍した日本放送協会アナウンサー。志村の3年先輩。
- 和田信賢 - 同時期に活躍した日本放送協会アナウンサー。志村の2年先輩。
- 北出清五郎
- 杉山邦博
- 西田善夫