陪臣
陪臣(ばいしん)は、武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。「またもの」、「また家来」とも呼ばれた。
他の国々の同様の身分についても用いられる。
概要
武士団やそれを基盤にした江戸時代の幕府や各藩の官僚機構は、家相互の主従関係のネットワークで構成されていた。将軍、藩主が直接掌握し、命令権を持つのは直接の主従関係を結んだ家臣(直臣)だけであり、家臣がさらに召し抱えた者については主従関係を持たなかった。こうした、主人を持つ武士が家臣として召し抱えた武士を陪臣と呼んだ。
江戸時代の陪臣
江戸幕府の制度においては、将軍の直接の家臣である大名や旗本は直参、彼らの家臣は陪臣とされた 。直参が蔵米取りの下級旗本であっても将軍への拝謁が許されていたのに対し、陪臣はたとえ大藩で1万石以上と大名並みの石高を有する家老、藩主一族でも拝謁は許されなかった。彼らは将軍との主従関係を持たず[1] 、拝謁の資格を有しなかったのである。陪臣でありながら将軍に拝謁を許されることは大変な名誉であり、将軍の代替わりごとに拝謁を許されるなどの待遇を与えられることは、陪臣としては抜きんでた名門であることの証でもあった。同様に陪臣が他家の主君に直接面会をすることも出来なかった。主君が不在であったり病気等の理由で江戸城に登城できない場合、陪臣が登城し用件を老中・若年寄など幕閣に伝える場合もあった。この際も幕閣は他家主君であるので、御用取次を介して用件が伝えられた。
また、旗本が用人などとして抱える家臣も将軍からは陪臣である。この中には、知行地の代官をつとめたりするほか、主君が奉行に就任した際に内与力として随行するなど幕政に直接従事する者も見られた。
陪々臣
大名・旗本及び一定以上の格の御家人は軍役規定に則り、陪臣として侍を召し抱えていた。加賀藩、仙台藩など大藩においては陪臣である上級家臣の禄高も高く、彼ら高級陪臣はさらに家臣団を抱えていた。加賀藩における長氏のように土着の豪族が後からやってきた藩主の支配体制にそのまま組み込まれたケースでは彼らの支配体制・家臣団がそのまま維持されることもあった。これら陪臣に仕える家臣は陪々臣と呼ばれた。陪々臣といっても主家が高禄を得ている場合、禄高は微禄の直参より遥かに高いケースも存在し、陪々臣がさらに家臣を抱える例もあった。しかし奉公関係が非常に複雑になる上、謀反を疑われる危険もあったため、諸侯間の了解事項として士分として扱われるのは陪々臣までとされていた。名前の残っている陪々臣には、『忠臣蔵』で有名な赤穂浅野家家臣吉田兼亮の足軽寺坂信行(のち赤穂浅野家直参の足軽となる)がいる。このほか、金沢藩人持組の赤座家には橋本家らの陪々臣の存在が記録に残っており、上杉家にも上杉治憲の時代には家老家に陪臣が仕えていたことが見える。
天下の三陪臣
『名将言行録』では、戦国時代における天下の三陪臣が挙げられている。
- 「陪臣にして、直江山城、小早川左衛門、堀監物杯は天下の仕置をするとも仕兼間敷(しかねまじき)ものなり」
豊臣秀吉が主君で、その直臣である上杉景勝の家臣直江兼続、毛利輝元の家臣小早川隆景、堀秀政の家臣堀直政はそれぞれ陪臣にあたり、陪臣であるが天下の仕置も務まると評価したものである。