今川彦五郎
今川 彦五郎(いまがわ ひこごろう)は、戦国時代の駿河今川氏の人物。今川氏親の次男、今川氏輝の弟。
当主である氏輝と同日に死亡という異様な出来事が記録に残されているにもかかわらず、不明な点の多い人物である。
彦五郎という名
中世の今川氏では本項の彦五郎のほか、今川範忠(本項彦五郎の曽祖父)、今川義忠(範忠の子、彦五郎の祖父)、今川氏親(義忠の子、彦五郎の父)、今川氏真(義元の子)が彦五郎を名乗った[1](彼らについては当該記事を参照)。
兄の氏輝は「五郎」を通称とした。五郎あるいは彦五郎は、今川家歴代の後継者が名乗る通称とみなされている。
その死
今川彦五郎に関する生前の記録はない。名が史料に現れるのはその死に際してである。
隣国甲斐の武田家家臣・駒井政武が残した『高白斎記』や、冷泉為和の歌集などによると、天文5年(1536年)3月17日、今川家当主である兄・氏輝と同日に彦五郎は急死した[2]。
氏輝・彦五郎の死は、今川義元・玄広恵探兄弟による今川家を二分した内乱(花倉の乱)へとつながる。
彦五郎をめぐる謎と解釈
今川彦五郎という人物とその死には不可解な点が多く、さまざまな解釈が行われている。
史料の謎
彦五郎に関する史料はいずれも今川家以外の人物によって記されたものである。今川家側の史料に彦五郎の名を記したものはなく、『今川記』『今川氏系図』には彦五郎の記載はない。
大永6年(1526年)に行われた今川氏親の葬儀には「今川氏親公葬記」という詳細な記録が残されているが、彦五郎が出席して記録に残されてしかるべき状況にも名はない。こうした不可解な状況から、今川義元が家督継承後に記録を書き換え、彦五郎の存在を抹消したという推測さえある[3]。
通説
史料の記載から、彦五郎を氏輝の弟とするのが通説である。
氏輝が生来病弱であったため、不測の事態があった場合の後継者として次男に「彦五郎」の名を与え、出家をさせずに駿府で育てていたと考えられる。彦五郎の生母を明記した史料はないが、彦五郎が後継者として考えられていることから、氏輝と同じく寿桂尼と推定されている[4]。
異説
「今川氏輝の弟・彦五郎」は実在しないという説もある。彦五郎は氏輝(五郎)のことであり、他国に兄弟であるかのように誤って伝聞されたという。
また、氏輝の実子だったとの説もある。
参考文献
- 小和田哲男『今川義元』(ミネルヴァ書房、2004年)
- 有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)