松浦興信
松浦 興信(まつら おきのぶ、? -1541年(天文10年))は、戦国時代の大名。松浦氏の当主(第24代)。志佐純本(峯昌、田平昌)の子で、叔父(純本の弟)・松浦弘定の養子。志佐純次、深江純忠の兄。松浦隆信の父。平戸城主。肥前守。通称は源三郎。法名は高齢。
松浦氏には多くの一族があるが、興信はそのうち平戸松浦家の一門である。平戸松浦家は、松浦家の分家の一つにすぎなかったが、興信の曽祖父である松浦義(まつら よし、平戸義)の時代に将軍足利義教の信任を受けて以来、本家(本家は下松浦党の祖である松浦直の長男御厨清の系譜にある相神浦松浦家)をしのぐ勢力を誇るようになっていった。興信の祖父である松浦豊久(とよひさ)には六人の子があり、平戸松浦家の家督を次子の弘定(ひろさだ、大内政弘より偏諱を賜う)に継がせ、長子の昌(まさし)は田平峯家(田平氏)へ養子に出した。昌は後に田平氏を追われ、平戸松浦家の家督を巡り弟の弘定と対立したものの、近隣の志佐氏と敵対すると弘定と和解し、大内義興(政弘の子)の援助を受け志佐氏を滅ぼし、自身が志佐の領主となり志佐純本(純元)を名乗った。弘定は和解の証として昌の実子である源三郎(興信)を後継としている。
松浦氏の嫡流筋である相神浦松浦家(宗家松浦氏)との関係は険悪であり、弘定はたびたびこれと争い、1498年、相神浦(現佐世保市)の竹辺城を攻め、松浦政を攻め滅ぼしたが、これに源三郎も参加していたという。
源三郎は1515年、先代の弘定が没し、当主となる。当時の北九州の実力者で前述の通り弘定を援助した大内義興に臣従してその偏諱を賜り興定(おきさだ、「定」は養父・弘定の1字)、のち興信を名乗る。義興亡き後もその子である大内義隆に仕え、李氏朝鮮や明と交易し、莫大な利益を上げたものの、少弐氏や有馬氏、後には龍造寺氏と結んだ相神浦松浦家の松浦親(政の子)の勢力は衰えることはなく、当時の平戸松浦家の基盤は強固とはいえなかった。興信の没後には家督争いが再燃している。
また、同じく宇久氏(後の五島氏)とは縁戚関係であり、先代弘定の代におきた玉之浦納の反乱により避難してきた宇久盛定を援助し、1521年の盛定の旧領復帰に貢献している。