善悪
善悪(ぜんあく)とは、とどのつまり、客観性やある主観性においてそれが望ましいか否かという事である。
道徳的価値観に於いて「正邪」が意識や考え方といった心の在り方に主眼を置いて判断するのに対し、「善悪」はその行為や事柄を総合的に判断する。
具体的にどういった行為や事柄が望ましく、あるいは望ましくないかは、哲学や倫理学の諸理論によって様々であり、特定の基準がある訳ではない事に注意する必要がある。
旧約聖書の律法における善悪
ヘブライ語の善(טוב)と悪(רע)の意味は、モーセ五書創世記2章9節に起因し、食べるために「良いか悪いか」[1]、また創世記3章6節では善(טוב)について「良い」や「good」の他に「おいしそう」という意味もある[2]。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
And when the woman saw that the tree was good for food, and that it was pleasant to the eyes, and a tree to be desired to make one wise, she took of the fruit thereof, and did eat, and gave also unto her husband with her; and he did eat.
脚注
関連項目
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