太武帝
テンプレート:特殊文字 テンプレート:基礎情報 中国君主 太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝。第2代明元帝の長子。字の仏狸は古代テュルク諸語の büri で、狼を意味する。
生涯
即位当初は、北方の古代モンゴル族と見られる柔然の対策に重点を置き、425年にその撃退に成功した。続いて華北の統一を図り、匈奴赫連部の劉氏が建てた夏を攻撃し、長安を陥落させ、427年には、都の統万城を落として夏を滅ぼした。
436年には、遼河流域を支配していた馮氏の北燕を滅ぼし、439年には甘粛省武威に拠る匈奴沮渠部が建国した北涼を滅亡させるという東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功した。五胡十六国時代の終焉である。その後、内蒙古の北辺防備のために、6か所の鎮(六鎮)を中心とした屯田地帯を設けた。
450年に、100万と称した大軍を率いて南征に出発した。劉宋は大敗し、戦死者は万単位に上ったと伝えられている。北魏軍は瓜歩(江蘇省)まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城(山西省大同市)に引き返した。ただ、捕虜となった宋民5万余戸は畿内に分配された。また、その最盛期である元嘉の太平の世(424年 - 452年)を謳歌していた劉宋は、江北(長江の北)の地を赤地とされ、これを境に衰退の一途を辿ることになった。
太武帝は、444年に、漢人宰相の崔浩と、信奉していた新天師道の開祖である道士の寇謙之の進言もあってか、広く人士に対して僧侶や師巫を養うことを禁止する詔を出した。それに次いで446年、蓋呉の乱の平定のために長安に向かった時に、長安の寺院中より大量の武器が発見されるという事件が起こった。これによって廃仏の詔を発し、寺院や仏像を破却し、沙門は坑殺に処した(三武一宗の廃仏の第1)。なお、この廃仏を北涼の滅亡をきっかけとして西域貿易を国家の手で掌握したいとする太武帝とこれに反発する商人や彼らから信仰されて保護を受けていた仏教寺院との対立とする解釈もある[1]。
内政においては、宰相の崔浩を中心に漢族の諸侯を重用した。しかし、崔浩らの性急な漢化政策や、南朝に範をとった貴族制の採用に対して反発し、国史編纂上の問題を口実にして、450年には崔浩を族誅に処した。
451年、宦官の宗愛の讒言によって、結果的に帝の愛する皇太子の拓跋晃(太武帝の長男、景穆太子)がショックのために病没するという事件が起こった。その断罪を恐れた宗愛によって、452年に太武帝は殺害された。宗愛は帝の末子の南安王拓跋余を擁立したが、早くも宗愛の跋扈に辟易した皇帝の南安王は、宗愛を誅殺する動向を見せたために、身の危険を感じた宗愛は先手を打って南安王を殺害した。その有様を見た尚書の陸麗・羽林郎中(近衛団長)の劉尼・殿中尚書の源賀(禿髪破羌)らが宗愛を逸早く誅殺して、亡き皇太子の嫡子である文成帝(拓跋濬)を即位させた。
宗室
后妃
子
脚注
- ↑ 古賀登『両税法成立史の研究』雄山閣、2012年、P214