ナンガ・パルバット
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テンプレート:Infobox 山 ナンガ・パルバット(Nanga Parbat)は、ヒマラヤ山脈のパキスタンギルギット・バルティスタン州にある山。標高は8,125 mで世界第9位。
概要
「ナンガ・パルバット」はウルドゥー語で「裸の山」の意味で、その周囲に高い山が無いことに由来する。nangaナンガとは、サンスクリット語でnaked、bareの意である。
南側のルパール壁は標高差4,800 mと世界最大の標高差を誇り、また屈指の登攀難壁である(初登攀はラインホルト・メスナーとギュンター・メスナー)。西側のディアミール壁も困難な壁である。南西稜は「マゼノリッジ」と呼ばれ、13kmの間に7000m峰を6つ、6000m峰を2つ含むヒマラヤでも最大級の稜線となっている。
ヘルマン・ブールが1953年7月3日に初登頂するまでにドイツ隊が何度も挑み、多くの遭難者を出したことから「人喰い山」と恐れられた。2013年にブロードピークの冬期登頂が達成されたため、現在、冬季登頂に成功していない8000m峰はナンガ・パルバットとK2のみとなっている。
登山史
- 1895年 - イギリスのアルバート・フレデリック・ママリーが試登し7000m地点まで到達するが、悪天候により下山。別ルートの偵察中にディアミール氷河で行方不明に。ナンガ・パルバット最初の犠牲者。
- 1934年 - ウィリー・メルクール率いるドイツ隊が撤退中に悪天候に襲われメルクールを含む9人が死亡。
- 1937年 - カール・ウィーン率いるドイツ隊のキャンプ地を雪崩が直撃し、ウィーンを含む16名の死者を出す。
- 1939年 - インドに滞在していたドイツ隊が、第二次世界大戦の勃発でイギリス軍の捕虜となる。後日、ハインリッヒ・ハラーを含む一部の隊員が収容所から脱走し、チベットに逃げ込んで終戦まで同地で過ごす。
- 1953年 - ヘルマン・ブールが無酸素で初登頂。第5キャンプ(6850m)からは単独登攀。山頂にピッケルを残した。
- 1970年 - ラインホルト・メスナーとギュンター・メスナーの兄弟がルパール壁初登攀に成功。下山中、ギュンターが雪崩に巻き込まれて死亡。
- 1976年 - ハンス・シェル隊長率いるオーストリア隊の4人がルパール壁の新ルートで登頂に成功。以降シェル・ルートと呼ばれる。
- 1978年 - ラインホルト・メスナーが単独・アルパインスタイルで初登頂。新ルート。
- 1983年7月31日[1] - 富山県山岳連盟登山隊の谷口守、中西紀夫が日本人初登頂(西壁キンスホッファールートから)。
- 1988年7月12日 - 遠藤由加が日本人女性初の無酸素登頂。
- 1990年8月18日 - 川崎市教員登山隊の戸高雅史がシェル・ルートで無酸素登頂。 同行メンバー一名が滑落死。
- 1995年7月23日 - 千葉工大山岳部の坂井広志ら3人が北面新ルートを初登攀し登頂に成功。
- 1999年 - 池田壮彦が山頂直下でブールが残置したピッケルを発見し回収。
- 2001年6月30日 - 竹内洋岳がキンスホッファールートで無酸素登頂。
- 2005年9月 - スティーブ・ハウス、ヴィンス・アンダーソンの2人がルパール壁中央側稜をアルパインスタイルで初登攀し登頂に成功。
- 2012年7月 - サンディ・アラン、リック・アレンの2人が初のマゼノリッジ完全縦走による登頂を果たす。
- 2013年6月 - 武装集団が登山者を襲撃し、ベースキャンプを設営していた10人が死亡。パキスタン・ターリバーン運動が犯行声明を出す[2]。
ナンガ・パルバットが登場した作品
- 「セブン・イヤーズ・イン・チベット」 - ハインリッヒ・ハラーの「チベットの七年」を映画化。
- 「ヒマラヤ 運命の山」 - 2010年のドイツ映画で、1970年にルバール壁の初登攀を成し遂げたメスナー兄弟の栄光と悲劇を描く。
関連書籍
脚注
テンプレート:8000メートル峰 テンプレート:Pakistan-stub
テンプレート:Mountain-stub- ↑ 中西隊員は前日にもアタックしたが、悪天候のため登頂を確認できず撤退。天候回復後に谷口隊員とともに再アタックの末登頂したが、前日につけた足跡は頂上を通過していた。
- ↑ テンプレート:Cite news