河内敏光
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テンプレート:バスケットボール選手 河内敏光(かわち としみつ、1954年5月7日 - )は、東京都足立区出身のバスケットボール選手・指導者・解説者。
来歴
京北高等学校から明治大学に進み、同期の北原憲彦らとともにインカレなどのタイトルを獲得。
卒業後は、三井生命保険バスケットボール部入部。日本リーグの主力選手の一人としてリーグ戦はもとより全日本チームでも活躍し、現役引退後も三井生命チーム、アトランタオリンピックとユニバーシアード福岡大会の日本代表監督を歴任。ユニバーシアードでは準優勝に導いた。またNHK衛星第1テレビのNBA中継解説者としても活動していた。
その後2000年3月に大和證券バスケットボール部を継承して設立されたクラブチーム「新潟アルビレックスBB」の運営母体企業である「株式会社新潟スポーツプロモーション」の社長に就任し、企業から市民資本を重視したバスケットボールクラブ作りに奔走した。
現在はbjリーグのコミッショナーとして、リーグの中心に立って活動している。設立の際にはリーグ運営会社の社長も務めていたが、2007年に社長職から退きコミッショナーに専念している。2014年6月、日本バスケットボール協会理事に就任。
仙台89ERSのヘッドコーチを務める河内修斗は河内の子息である。
bjリーグ中継の際には「偉大なる言いだしっぺ」と紹介されることもある。
経歴
- 京北高校 - 明治大学 - 三井生命(選手―ヘッドコーチ) - 新潟アルビレックス(GM)
その他
- 幼少期は野球に親しみ、同年代のチームでは4番でエースであった。また、大人のチームでプレーもした経験がある。河内は当時読売ジャイアンツのファンであったが、東京オリオンズの本拠地であった東京スタジアムにもよく足を運んでいた。中学でも野球を続けた河内であったが、球拾いの毎日であり、河内は「何故、自分より下手な先輩が試合に出ているのか。」と不満だったという。ボールが講堂まで取りに行ったとき、バスケットボール部が学年に関係なく同じ練習をしているのを見て衝撃を受けた。その後、球技大会で活躍した河内はバスケットボール部に転籍する。
- 京北高校は厳しい部で300人いた2年の秋には、新入部員が4人になるほどの厳しい部であった。ここで河内は才能を開花させ、全日本ジュニアの一員としても活躍した。河内の両親は既に受かっていた京北高校ではなく、都立三商に進学してもらいたかったようだが、河内は「都立三商なら東京では強くても全国大会には行けない。バスケで全国に行くなら京北しかない。」と思い、河内は都立三商の入試を受けず、河内は念願の京北高校へと進学する。