藤原忠衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 忠衡(ふじわら の ただひら、仁安2年(1167年) - 文治5年6月26日(1189年8月9日))は、平安時代末期、鎌倉時代末期の奥州藤原氏の武将。藤原秀衡の三男。藤原泰衡の異母弟。庶長兄には藤原国衡がいる。通称、泉三郎、泉冠者。秀衡の館柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていた。
略歴
文治3年(1187年)10月29日、父・秀衡は平泉に庇護していた源義経を主君として推戴し、兄弟心を一つにして鎌倉の源頼朝に対抗するよう遺言して没した。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された。(『吾妻鏡』文治5年6月26日条)享年23。「奥州に兵革あり」と記録されている事から、忠衡の誅殺には軍事的衝突を伴ったと見られる。なお、中尊寺金色堂内の秀衡の棺内に保存されている首は忠衡のものとする説があったが、昭和25年(1950年)の実見調査で確認された晒首痕跡から、現在では兄・泰衡のものとするのが定説化している。
妻の佐藤基治(信夫荘司)の娘は、忠衡の菩提をとむらうため、薬師如来像を奉納して出家し、妙幸比丘尼と称した。