当麻曼荼羅
テンプレート:Sidebar 当麻曼荼(陀)羅(たいま まんだら)とは、奈良の当麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅(当麻曼荼羅と中将姫伝説の項を参照)の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称である。
曼荼羅という用語を用いているが、密教の胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅とは無関係である。浄土曼荼羅という呼称は密教の図像名を借りた俗称であり、現代における正式名称は、浄土変相図である。
浄土変相図の図様としては、他に智光曼荼羅と呼ばれるものと、清海曼荼羅と呼ばれるものとがあり、当麻曼荼羅とあわせて、浄土三曼荼羅と称せられている。その中で、当麻曼荼羅の特徴は、一見して、図像が四つの部分に区切られており、他の浄土図に比べて極楽浄土中の尊像も数多く描かれていて、複雑な画面構成をしているという点である。
これは、本図が、浄土三部経の中の「観無量寿経」の中に説かれる内容を忠実に描いている点によっている。この事から観経曼陀羅とも言う。
構成
本図を見る時は、まず、画面向かって左側の区画を下から上に向かって、王舎城の悲劇と言われる序分の内容を見る(序分義)。つまり、阿闍世が、提婆達多の勧めによって、父王の頻婆娑羅王を幽閉して餓死させようと図った。更に、それを阻止しようとした母の韋提希夫人までをも幽閉した。それを嘆いた韋提希が霊鷲山の釈迦に安楽な世界についての説法を求めるという内容が描かれている。
- 禁父縁・初重~四重
- 禁母縁・初重、二重
- 厭苦厭・初重、二重
- 欣浄縁
- 顕行縁
- 示観縁
- 化前縁
第二は、画面向かって右側の区画を上から下に向かって、釈迦が韋提希に対して説いた十三観法(定善十三観)の図が描かれる(定善義)。
- 日想観
- 水想観
- 宝地観
- 宝樹観
- 宝池観
- 宝楼観
- 華座観
- 形像観(像相観)
- 真身観
- 観音観
- 勢至観
- 普往生観(普観)
- 雑想観
である。
第三は、画面下方の全部で10ヶ所に区切られた区画を見る。中央の文章の痕跡が記された区画は、本図の根本曼荼羅が蓮糸で織られたという縁起を記した由緒書きの跡である。その左右に、向かって右から左へと、九品往生のさまが描かれる(散善義)。左から、
- 上品上生
- 上品中生
- 上品下生
- 中品上生
- 中品中生
- 中品下生
- 下品上生
- 下品中生
- 下品下生
の9図である。
最後に中央の阿弥陀浄土図を見ることとなる(玄義分)。前面に蓮池が描かれ、その池中の蓮花中からは、往生者が生まれているさまが見え、その池の畔では、阿弥陀と往生者の父子相迎の様が描かれている。また中央には阿弥陀、観音、勢至の三尊を中心とした聖衆が描かれ、その後方には左右対称に宝閣が描かれる。また、空中には散華や各種の楽器と共に飛天が舞い、極楽浄土のさまが描写されている。
伝来
当麻曼荼羅は、上述の如く、観無量寿経(観経)に基づいた変相図なので、浄土変相図の中でも観経変相図と呼ばれる図像を指すことになる。観経変相図は、当麻寺が発祥ではない。中将姫織成の伝説のある根本曼荼羅の原本も、近年の調査の結果、伝説のような蓮糸を織ったものではなく、錦の綴織りであることが判明している。しかも、同時期の日本に見られる綴織りと比較して桁違いに密度の濃い、非常に高い技術を要する織り方がなされていることも分かっている。そのことから、原本は中国製なのではないかと推定されている。
さて、中国における観経変相図となると、日本に現存するような軸装の絹本なり紙本の図は見られないが、壁画としての遺品は、多く見ることができる。唐代では敦煌莫高窟の壁画中に何点か見ることができるし、宋代でも大足石刻中に観経変相図像が見られる。
関連項目
参考文献
- 河原由雄「浄土図」(『日本の美術』272、1989年1月)
- 河原由雄「観経曼荼羅図」(『国華』1013、1978年6月)
- 河原由雄「敦煌浄土変相の成立と展開」(『仏教芸術』68、1968年8月)
- 川中光教「當麻曼陀羅絵説き」(1987年9月30日 白馬社)