ハリコフ攻防戦
ハリコフ攻防戦(ハリコフこうぼうせん、ドイツ語:Schlacht bei Charkow)は、第二次世界大戦中の1941年から1943年に掛けて、ウクライナ屈指の大都市ハリコフの制圧をめぐって4度にわたり繰り返された、ナチス・ドイツ軍とソビエト赤軍の戦いである。
第一次ハリコフ攻防戦
テンプレート:See also 1941年のバルバロッサ作戦の際、ドイツ南方軍集団とソ連南西方面軍との間に、ハリコフで小競り合いがあった。
第二次ハリコフ攻防戦
テンプレート:Main 1942年のスターリングラード攻防戦に繋がる。ドイツ南方軍集団は6月27日にブラウ作戦を発動する予定でいた。ドイツ軍は事前攻撃としてソ連軍のハリコフ方面の突出部への攻撃を準備していた。
一方、ドイツ軍のこれらの動きとは別に、ソ連軍は、幕僚の反対を押し切って、スターリンの指令で、5月12日、1月の攻勢で出来ていた南部のソ連側突出部と、北部のハリコフ周辺で攻撃を開始、ハリコフを奪回しようとした。しかし、このソ連軍の動きは、結果としてドイツ軍の思うツボにはまる形となり、ドイツ軍の反撃により、攻勢部隊は、ドイツ軍に包囲、殲滅され、貴重な戦車戦力を多数失い、南部戦線での軍事的バランスは、ドイツ軍側の圧倒的な優位に傾いた。この為、ソ連軍は、ヴォルガ川までの退却を余儀なくされた。
第三次ハリコフ攻防戦
テンプレート:Main 1942年のスターリングラード攻防戦の結果、北方のスターリングラードに向かっていたB軍集団主力第6軍が壊滅したため、南方油田地帯を攻めていたA軍集団は背後を襲われる危機に陥ったが、ギリギリのタイミングで辛くも脱出に成功した。春の雪解け期がくる前に可能な限りの領土回復を目指す戦略をとるソ連軍は、引き続き進撃を続け、1943年2月18日ハリコフを落とし、ドイツ南方軍集団司令部も危機に瀕した。
しかし、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥はソ連軍も補給線が伸びきり、前進限界点に達していると分析。マンシュタインは脱出したA軍集団・残存B軍集団・増援のSS装甲軍団を展開して、数日後には一気に反撃に転じた。進撃続きで疲弊していたソ連軍は総崩れとなり、南部から次々と壊走し、3月14日ハリコフもドイツ軍の手中に戻った。
この勝利でクルスクを中心とした突出部が出来、7月のクルスクの戦いへと繋がっていく。
第四次ハリコフ攻防戦
クルスクの戦いで、ソ連の追撃戦の際小競り合いがあった。そして1943年7月末から、ドイツ軍はソ連軍による反撃にあった。しかしソ連軍はドイツ軍の予測していた兵力を大きく上回った攻勢をもって反攻に臨んでいた。またソ連軍は、一旦中央軍集団への攻撃をブリャンスクにおいて停止させ、南方軍集団の殲滅を行うべくハリコフに向かうことにした。
これに対してドイツ軍は、クルスクの戦いにおいて疲弊しかけていた戦車部隊を集結させてハリコフにおいて敵軍を迎撃するという作戦を敢行し、間一髪勝利を手に入れた。しかし消耗した現地のドイツ軍部隊には既に防衛しきるだけの戦力は残っておらず、結局これ以降、ハリコフはソ連の手に戻ることになる。