ヴィスコンティ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィスコンティ家(Visconti)はイタリアの貴族の家系。13世紀には一族からローマ教皇グレゴリウス10世(1210年 - 1276年、在位1271年 - 1276年)を出し、都市国家であったミラノの支配権を確立、1395年にはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが皇帝に認められてミラノ公になった家である。15世紀に途絶えると、その後はスフォルツァ家に支配権は移行した[1]。映画監督ルキノ・ヴィスコンティもこの一族の流れであるが、ミラノ公ジャン・ガレアッツォの筋ではない。
- テオバルド・ヴィスコンティ(1210年 - 1276年)
- ローマ教皇。グレゴリウス10世(教皇在位1271年 - 1276年)。
- オットーネ・ヴィスコンティ(en)(1213年 - 1295年)
- 1262年からミラノ大司教を務め、1277年にミラノのシニョーレ(僭主、藩主)になる(シニョーレの在位年(以下『在位』とのみ表記):1277年 - 1278年、1282年 - 1295年[2])。ミラノがローマ帝国からの独立性を強めた時期である。
- マッテーオ・ヴィスコンティ1世(en)(1250年 - 1322年)
- オットーネの甥の息子。ミラノ僭主(在位:1287年 - 1302年、1311年 - 1322年)。彼の弟ウーベルトの16代目子孫が有名な映画監督のルキノ・ヴィスコンティである。
- ガレアッツォ・ヴィスコンティ1世(1277年 - 1328年)
- マッテーオ1世の息子。ミラノ僭主(在位:1322年 - 1327年)。
- アッツォーネ・ヴィスコンティ(en)(1302年 - 1339年)
- ガレアッツォ1世の息子。ミラノ僭主(在位:1329年 - 1339年)。
- ジョヴァンニ・ヴィスコンティ1世(1290年? - 1354年)
- ガレアッツォ1世の弟。ミラノ僭主(在位:1339年 - 1354年)。
- ルキーノ・ヴィスコンティ1世(1287年? - 1349年)
- ガレアッツォ1世、ジョヴァンニ1世の弟。ミラノ僭主(在位:1339年 - 1349年)。
- マッテーオ・ヴィスコンティ2世(1319年?-1355年)
- ガレアッツォ1世とジョヴァンニ1世の弟ステーファノの息子。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1355年)。
- ベルナボ・ヴィスコンティ1世(1323年 - 1385年)
- マッテーオ2世の弟。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1385年)。
- ガレアッツォ・ヴィスコンティ2世(1321年 - 1378年)
- マッテーオ2世、ベルナボ1世の弟。ミラノ僭主(在位:1354年 - 1378年)。
- ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351年 - 1402年)
- ガレアッツォ2世の息子。1386年、ミラノ大聖堂の建設に着手。1395年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルにより、はじめてミラノ公の称号を得る。ヴィスコンティ家の絶頂期である(在位:1378年 - 1395年、公爵在位:1395年 - 1402年)。
- ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ(1388年 - 1412年)
- ジャン・ガレアッツォの息子。1402年、母の摂政の下でミラノ公となった(在位:1402年 - 1412年)。
- フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ(1392年 - 1447年)
- ジョヴァンニ・マリーアの弟で、1412年兄が暗殺され、ミラノ公となる(在位:1412年 - 1447年)。フィリッポの死後はスフォルツァ家にミラノの支配権が移る。
- ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ(en)(1425年 - 1468年)
- フィリッポ・マリーアの娘。傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァと結婚。
関連項目
- 貴族
- ミラノ公国
- ミラノの支配者一覧
- ハンニバル・レクター(トマス・ハリスの複数の小説に登場する架空の人物。ヴィスコンティ家の血筋であるという設定)
- アルファロメオ - イタリアの自動車メーカー。エンブレムに紋章が使用されている
- ビショーネ - 紋章に描かれた蛇
脚注
- ↑ テンプレート:Citation
- ↑ これ以降のシニョーレ在位年は「別巻 世界歴史地図」『図説 世界の歴史』(学習研究社)、1979年による。
外部リンク
- GENEALOGIE DELLE DINASTIE ITALIANE(イタリア語 要登録)