ボビー・フィッシャー
ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer、1943年3月9日 - 2008年1月17日)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ生まれのチェスプレーヤー。チェスの世界チャンピオン[1](1972年 - 1975年)。本名、ロバート・ジェームス・フィッシャー (Robert James Fischer) 。「米国の英雄」あるいは「幻の英雄」とも呼ばれる。チェス960も考案した。
あえてタイトルを放棄したり、試合を拒否したり、あるいは長年にわたり身を隠したりするなど、その謎めいた人生、数奇な人生という点でもよく知られている人物である。IQは187[2]。
来歴・人物
母親のレジーナ・ウェンダー・フィッシャーは当初ハーマン・J・マラーに秘書として雇われたが、マラーに才能を見いだされ医学を学ぶように進められた。父親のハンス・ゲルハルト・フィッシャーは、招聘されマラーと共にモスクワの大学へ行った生物物理学者である。二人はモスクワで結婚し、娘のジョーンが生まれた。しかしソ連で反ユダヤ主義が広がり出すと、ユダヤ人の二人はパリへ移住した。後にレジーナは離婚し、国籍を持っていたアメリカへ子供を連れて移住するが生活は苦しくジョーンを父親に預けていた。またシカゴの病院でロバートを出産したときにはホームレス同然だった。出生証明書にある父親の記入欄にはハンスと記載されているが、ハンスは生涯アメリカに入国したことはなかった[3]。
ロバートが6歳のとき、落ち着きのない彼を静かにさせるため、姉は1ドルのチェスセットを与え簡単なルールを教えた。そこですぐにチェスの虜となった[3]。
1957年にはインターナショナルマスターとなり、翌年グランドマスターとなる。だが、1962年国際舞台から引退した(但しアメリカ合衆国内の大会には出場した)
プレースタイルにフィッシャーならではのものがあり、1956年の対ドナルド・バーン戦でクイーンをわざと捨てることで勝ち、1963年の対ロバート・バーン戦でもナイトを捨てて勝った。フィッシャーはしばしば「天才」と呼ばれるようになっていた。
1970年のソ連対世界戦で再びチェス界に復帰した。1971年の挑戦者決定戦ではソビエト連邦のマルク・タイマノフに6対0で完勝し、さらにデンマークのベント・ラーセンにも6対0で完勝した。前世界チャンピオンのチグラン・ペトロシアンに5勝1敗3引き分けで勝ち、当時の世界チャンピオンボリス・スパスキーへの挑戦者となった。
1972年、レイキャヴィークで行なわれた世界選手権で、ボリス・スパスキーを破り世界チャンピオンとなった。当時、世界は冷戦のさなかであり、ソヴィエト連邦は第二次世界大戦以降、チェスのチャンピオンのタイトルを独占しつづけていたので、アメリカ側・西側から見てこれは歴史的な勝利となり、「米国の英雄」として扱われた。
その後、反ユダヤ的な発言が目立つようになった[3]。
1975年、防衛戦の運営をめぐり国際チェス連盟と対立し、アナトリー・カルポフと戦わなかったことで不戦敗とされ、タイトルを剥奪された。一説には自分からタイトルを放棄したとも。それ以来、フィッシャーは試合を拒否するようになった。その後何十年もの間表舞台から離れ、隠遁生活と言えるような生活を送り、世間から見るとすっかり消息不明となった。フィッシャーは「天才」であるのと同時に「変わり者」だとして語られるようになっていった。
ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。1992年にユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行なったのである。フィッシャーは試合前に、米国当局から「試合に参加するな」との手紙を受け取ったと公表した[1](米国政府はボスニア問題に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとり、米国人が同国において経済活動をすることを禁止していた)。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。米国は「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。フィッシャーは後に「この起訴は反ユダヤ的発言と反米発言に対する政治的迫害である」と語った。フィッシャーは再び表舞台から姿を消し、消息不明になった。
公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリー、スイス、香港、マカオ、韓国など、世界の様々な場所を転々としていて[1]、2000年ごろまでにはフィリピンと日本が主たるホームベースになっていたという[1]。
2004年7月14日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。世界中で、フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したとニュースが駆け巡った。同年8月、かねてより親交のあった日本チェス協会事務局長の渡井美代子と結婚を宣言した(“2000年来 彼女の家で同居し「事実婚」だ”とされた[1]。入籍はしなかった)。Timesの記者に対して、渡井は“ふたりは普通に生活している”と言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという[1]。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも温泉で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという[1]。
その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、米国を憎むフィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、フィッシャーにどのような状況打開策が残されているのか、非常に不透明な状況になった[1]。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えばボビーの父親の古郷でフィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われたドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた[1]。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、羽生善治、民主党の榛葉賀津也や社民党の福島瑞穂といった人々の運動が功を奏し、2004年12月、アイスランド政府がフィッシャーに対して市民権を与える措置をとり、拘束から約8ヵ月後の2005年3月24日、日本政府はフィッシャーのアイスランドへの出国を認め釈放した。以後はアイスランドに滞在し、2008年1月17日に64歳で死去した。
フィッシャーの死後、フィリピンの女性で「自分の子供(女の子、フィリピン国籍)の父親はフィッシャーだ」と主張する女性がいたが、墓を掘り起こしてのDNA鑑定の結果、その子の父親はフィッシャーでないことが判明した。アイスランドの裁判所は渡井美代子がフィッシャーの遺産(遺品)を相続することを認めた、という。
著書
- My 60 Memorable Games (Batsford, 2008年) ISBN 978-1-906388-30-0
- 水野優訳『ボビー・フィッシャー魂の60局』(評言社、2011年5月)上記の邦訳 ISBN 9784828205540
- 東公平訳『ボビー・フィッシャーのチェス入門』(河出書房新社、1974年12月)ISBN 4309260349
参考文献
- フランク・ブレイディー著、佐藤耕士訳『完全なるチェス』(文藝春秋、2013年2月)ISBN 9784163760407 - 親交のあった友人による評伝
- ジョージ・スタイナー著、諸岡敏行訳『白夜のチェス戦争』(晶文社、1978年11月)ISBN 4794955758、ISBN 9784794955753 - ボリス・スパスキー戦のレポート
- ブルース・パンドルフィーニ著、東公平訳『ボビー・フィッシャーの究極のチェス - 創造的で、大胆で、驚くべき革命的な珠玉の戦術 101』(河出書房新社、1995年10月)ISBN 4309262570
- 「チェス名人『日本で拘束』の謎 - 逃亡者 伝説の男ボビー・フィッシャーが日本で送った奇妙な4年間」『ニューズウィーク日本語版』2004年8月11・18日号 阪急コミュニケーションズ 19(31) (通号 918)、18~19頁
- 羽生善治「『伝説のチェス王者』フィッシャーを救え」『文藝春秋』2004年11月号 82(15)、218~225頁
出典
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 テンプレート:Cite news
- ↑ IQ of Famous PeopleKids IQ Test Center
- ↑ 3.0 3.1 3.2 完全なるチェス 引用エラー: 無効な
<ref>
タグ; name "Endgame"が異なる内容で複数回定義されています
関連項目
- ボビー・フィッシャーを探して
- チェス (ミュージカル)-モデルの一人とされている
外部リンク
テンプレート:チェス世界チャンピオンテンプレート:Link GA
テンプレート:Normdaten テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA