公孫淵
公孫 淵(こうそん えん、Gongsun Yuan、生年不詳 - 238年(景初2年8月23日))は、中国三国時代の武将。字は文懿か。祖父は公孫度。父は公孫康。叔父は公孫恭。兄は公孫晃。子は公孫脩。 遼東の地で自立し燕王と称したが、魏の司馬懿によって追討され滅んだ。
なお、西晋代に編纂された史書『三国志』では、西晋の高祖司馬懿の避諱により、字が省略されている。また、唐代に編纂された史書『晋書』では、唐の高祖李淵の避諱により公孫文懿と表記されている。
生涯
父が死去したときはまだ幼年であったため、後を継ぐことはできなかった。やがて成人した228年、父の後を継いで太守となっていた叔父・公孫恭を脅迫して、遼東太守の座を継いだ。この時、魏の曹叡(明帝)から揚烈将軍の官位を与えられている。
その後、公孫淵は魏と通じつつ密かに呉とも通じるなど、巧みな外交を見せている。この経緯から233年、呉から燕王に任じられた。しかし、心変わりして呉の使者を殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。
遼隧の戦い
テンプレート:Main しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬路線を招いた。 景初元年(237年)、毌丘倹は曹叡の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、一戦に及んだ毌丘倹を撃退した。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した。賈範・綸直らがこれを諫めたが、聞かずに処刑した。また文武百官を置き、年号を紹漢元年とした。領土は帯方郡と楽浪郡であった。翌2年(238年)、魏は司馬懿に命じてこれを討たせた。
このため公孫淵は呉に援軍を求めた。呉は前述の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた[1]。また、公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも遂に降伏した。
このとき、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと考え、相国に任命した王建らを使者に立て、その旨を伝えさせた。しかし、司馬懿は使者をその場で斬殺すると「お前達は楚と鄭の故事を知らないのか?私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建如きに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される謂われはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭の良い者を遣すように」と公孫淵に警告した。このため公孫淵は次に衛演を派遣して、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。しかし司馬懿は「降伏も出来ない者には死あるのみ。人質など無用である」と切り捨てた。
同年8月23日、公孫淵父子をはじめ廷臣は皆斬首、更に遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ京観(高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は洛陽に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄・公孫晃の一族も死を賜ることになってしまい、遼東公孫氏は滅亡することとなった。なお、追放された公孫恭は反乱の際に疑われ都に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。
倭との関係
公孫氏滅亡が、邪馬台国の卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との説がある。これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたため、滅亡により陸路が通じるようになったという見解に基づくものである。
なお、『魏志倭人伝』においていわゆる倭国の乱(『後漢書』の倭国大乱)から卑弥呼の遣使まで倭国に関する記述が途絶えているが、この期間は公孫氏が遼東で自立していた時期と重なるため、根拠に挙げられている。卑弥呼の帯方郡への遣使は、ちょうど公孫氏滅亡の直前である景初2年6月と魏志倭人伝に記述されている。しかしこれについては、帯方郡など遼東での戦乱最中時の遣使は困難であるとして、翌年の景初3年ではないかという説[2]もある。ただし、邪馬台国が遣使2人で朝貢物の奴婢10人布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇したのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績を認めたからだという観点から、公孫氏政権滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説[3]もある。
日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、燕王公孫淵の子孫だと称している。