インスブルックオリンピック (1976年)
テンプレート:告知 テンプレート:オリンピックインフォメーション インスブルックオリンピックは、1976年2月4日から2月15日まで、オーストリアのインスブルックで行われた冬季オリンピックである。大会マスコットは雪だるまがモチーフのスノーマン。1974年第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除してから[1]、初めての冬季オリンピックであった。
大会開催の経緯
当初、1976年冬季大会は1970年に開催された第69回IOC総会でデンバー(米国)での開催が決定していたが[2]、環境破壊等の問題で住民の反対運動のため、1972年10月に実施された住民投票で大会開催が返上され、1973年2月にインスブルックに開催が決定した経緯がある。そのため、前回の札幌大会の閉会式で行われた板垣武四・札幌市長からテンプレート:仮リンクデンバー市長への大会旗引き継ぎを、この回の開会式で板垣市長からテンプレート:仮リンクインスブルック市長へ改めて行った。インスブルックでの開催は、1964年以来2回目の開催で、大会のロゴは1964年大会とほぼ同じだが、五輪マークが黒一色になっており、文字のフォントも変更されている。
都市 | NOCコード | 1回目 | 2回目 | 3回目 |
---|---|---|---|---|
デンバー | テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国 | 29 | 29 | 39 |
シオン | テンプレート:SUI | 18 | 31 | 30 |
タンペレ | テンプレート:Flagicon フィンランド | 12 | 8 | - |
バンクーバー-ガリバルディ | テンプレート:Flagicon カナダ | 9 | - | - |
競技会場
- アクサマー・リツーム - アルペンスキー男子滑降を除く
- ベルクイーゼルシャンツェ - スキージャンプ(90m級)
- オリンピアワールド・インスブルック - ボブスレー、リュージュ、スピードスケート
- メッセハレ - アイスホッケー
- オリンピアハレ - フィギュアスケート、アイスホッケー
- パッチャーコーフェル - アルペンスキー (男子滑降)
- ゼーフェルト - バイアスロン、クロスカントリースキー、ノルディック複合、スキージャンプ(70m級)
実施競技
各国の獲得メダル
1 | テンプレート:FlagIOC | 13 | 6 | 8 | 27 |
2 | テンプレート:FlagIOC | 7 | 5 | 7 | 19 |
3 | テンプレート:FlagIOC | 3 | 3 | 1 | 7 |
4 | テンプレート:FlagIOC | 3 | 3 | 1 | 7 |
5 | テンプレート:FlagIOC | 2 | 5 | 3 | 10 |
6 | テンプレート:FlagIOC | 2 | 4 | 1 | 7 |
7 | テンプレート:FlagIOC(開催国) | 2 | 2 | 2 | 6 |
8 | テンプレート:FlagIOC | 1 | 3 | 1 | 5 |
9 | テンプレート:FlagIOC | 1 | 2 | 3 | 6 |
10 | テンプレート:FlagIOC | 1 | 2 | 1 | 4 |
主なメダリスト
- ファイル:Med 1.png 金メダル
- フランツ・クラマー(オーストリア、アルペンスキー男子滑降)
- ロジー・ミッターマイヤー(西ドイツ、アルペンスキー女子滑降)
- ロジー・ミッターマイヤー(西ドイツ、アルペンスキー女子回転)
- ハンス・ゲオルク・アッシェンバッハ(東ドイツ、スキージャンプ70m級)
- ドロシー・ハミル(アメリカ、フィギュアスケート女子シングル)
- ジョン・カリー(イギリス、フィギュアスケート男子シングル)
- イリーナ・ロドニナ、アレクサンドル・ザイツェフ(ソビエト連邦、フィギュアスケートペア)
- シーラ・ヤング(アメリカ、スピードスケート女子500m)
- ソビエト連邦(アイスホッケー男子)
- ソビエト連邦(バイアスロン4×7.5kmリレー)
- ファイル:Med 2.png 銀メダル
- ロジー・ミッターマイヤー(西ドイツ、アルペンスキー女子大回転)
- アントン・インナウアー(オーストリア、スキージャンプ90m級)
- シーラ・ヤング(アメリカ、スピードスケート女子1500m)
- ファイル:Med 3.png 銅メダル
- シーラ・ヤング(アメリカ、スピードスケート女子1000m)
日本選手の成績
前回1972年の地元札幌オリンピックでの日本選手団は、スキージャンプのメダル独占やリュージュ、ノルディックスキー複合等で入賞者を出すなど、めざましい活躍であった。今大会の日本選手団も、2大会連続のメダル獲得が期待された笠谷幸生はじめとするジャンプ陣などに期待が集まっていた。しかし、日本選手の最高位はスピードスケート500m女子の長屋真紀子の7位がやっとで、結局メダル獲得はおろか、6位以内の入賞者さえもゼロという惨敗だった。メダルと入賞者なしは1968年のグルノーブルオリンピック以来の2大会ぶりであった。
脚注
- ↑ オリンピック物語第五部 アマとプロ〈4〉読売新聞-2004年1月24日付
- ↑ Compliments from the International Olympic Committee Vote History web page.