インデペンデント
テンプレート:Infobox Newspaper インデペンデント紙(The Independent)はトム・オライリー(Tony O'Reilly)の所有するIndependent News & Media社によって発行されているイギリスの新聞。 愛称はインディ(Indie)、日曜版はシンディ(Sindie)と呼ばれる。 政治的にどこにも属さないと主張している。2004年にBritish Press AwardsのNational Newspaper of the Yearを受賞した。
歴史
1986年創刊
インデペンデント紙は既存の新聞の中ではもっとも新しいイギリスの高級紙――もはやかつての高級紙の判型(broadsheet)では発行されていないが、高級紙であることには変わりがない――であり、1986年10月に創刊された。発行元はNewspaper Publishing 社で、Andreas Whittam Smith、Stephen Glover、Matthew Symondsの3人が創刊した。彼ら3人はHartwell卿の体制下のデイリー・テレグラフを離れた記者たちであった。Marcus SieffがNewspaper Publishing社の初代社長、Whittam Smithが初代編集長となった。
同紙はイギリスの報道業界の重大な緊迫期に創刊された。当時、ルパード・マードックが長年の業界慣行を打破しようとし、出版労組と闘争していた。この不穏な空気の中で、新興の同紙は、マードックの抱える高級紙から非常によい人材を誘致することができた。これらの人材はマードックが自らの出版印刷業の拠点を構えたWapping地区に移らずに、辞職を選んだ人々であった。同紙はまた、主として歴史が浅かったために、他紙よりも印刷業者とかなり良好な関係を持った。
「本紙はそう(独立――Independent――している)です。あなたは?(It is. Are you?)」という広告文とともに登場し、ガーディアン紙とリベラル層の読者を求めて争った同紙は、1989年には40万以上の発行部数に到達することができた。停滞する新聞市場で読者獲得を競い合う中でのインデペンデント紙の出現は、紙面のデザインと内容の両面の刷新のみならず、損失を強いる「価格競争」の口火を切る要素の一つとなった。当時、新聞市場は非常に逼迫していたため、同紙が1990年に日曜版を創刊したときには、発行部数は期待を下回った。その結果として、日曜版の発行は大部分専属の編集部員によって続けられたが、一部内容は平日版に吸収されることになった。
財政問題
1990年代になると、親会社であるNewspaper Publishing社が経営難に陥っていることが明らかになった。1980年代に創刊されたいくつかの他紙は、採算性を確保するに足る定期購読者層を確立することなく、急速に破綻していったのだが、インデペンデント紙も同様の問題を抱えていた。そこで、大陸ヨーロッパの2つのメディアグループが同社に少額の出資をした。他の多くのメディア企業も、多くの理由から、経営難にあえぐ同紙のより完全な経営権を取得することに関心を持っていた。Tony O'ReillyのメディアグループとMirror Group Newspapersの両者は1994年半ばまでに同社に多額の出資を実施した。また、1995年3月に、Newspaper Publishing社は、株主割当発行により、O'Reilly(43%)、MGN(43%)、Prisa(スペインEl Pais紙の発行元、 12%)の3社に自社株分割を行い、経営が再建された。
1996年4月、さらに財政整理が行われ、1998年3月、O'Reillyは3000万ポンドでNewspaper Publishing社の残りの54%の株式を取得し、債務を承継した。Brendan HopkinsがIndependent Newsの代表となり、Andrew Marrがインデペンデント紙、Rosie Boycottが日曜版の編集長に任命された。Marrは短命だったものの劇的なデザイン変更を取り入れ、幾ばくか重要な支持を得たが、販促予算が限られていたこともあり、商業的には大部分が失敗であった(Marrは後に、半自伝的著作「我が職業(My Trade)」の中で、これらの改革は無謀であったと認めている)。
Boycottは1998年4月に退職し(The Daily Express紙へ移籍)、Marrも1998年5月に後に続き(後にBBCに政治部部長として入社)、Simon Kelnerが新編集長となった。このときまでに、同紙の発行部数は20万部以下にまで落ち込んでいた。Independent Newsは発行部数改善のために多額の支出をし、同紙は多くのデザイン変更を実施した。発行部数は改善したものの、1989年の部数には届かず、黒字にも戻らなかったため、解雇と緊縮財政が行われ、記者たちも離れてゆき、社内の士気も低下した。1995年から同社取締役で、かつてはSunday Times紙の重要人物であったIvan Fallonは、Hopkinsの後任として2002年7月にIndependent News & Mediaの代表となった。同紙は現在、毎年約500万ポンドの赤字を出しているが、2004年3月時点では、2005年までに黒字に転換すると予測している。
時折物議を醸す著名な配給ジャーナリスト(syndicated journalist)のRobert Fiskはインデペンデント紙に寄稿している。そして、彼の中東からの報道は、イスラエル・パレスチナ問題が論じられる英語のウェエブサイトではどこでも、広くそして一貫して引用されている。
高級紙判からタブロイド判への変更
インデペンデント紙は元々高級紙判(broadsheet)で出版されていたが、2003年9月から、内容はどちらも同じながらも、高級紙判とタブロイド判を選べるように出版されるようになった。タブロイド判バージョンは、「タブロイド」という言葉から連想される描写のきわどい大衆向け出版物と距離を置くために、「コンパクト判」と自称している。この小さい方の判型は読者の評判もおおむねよかったため、イギリス全土にだんだんと広がっていった。ルパード・マードックはすぐにこれに倣い、自らの保有する新聞にも「コンパクト判」を取り入れた。2004年5月14日、インデペンデント紙は最後の高級紙判の平日版を発行した。これに先立つ同年1月には、高級紙判の土曜版の発行を停止していた。The Sindie(日曜版)は2005年10月9日に最後の高級紙判を発行し、10月16日からはコンパクト判で発行される予定である。
2005年4月12日、インデペンデント紙は、レイアウトに、とりわけフランスのリベラシオン紙に近い、より大陸ヨーロッパ的雰囲気を与えた「デザインの抜本的変更」を公にした(それもそのはず、バルセロナのデザインスタジオによるものである)。また、平日の第二部は本紙の中に含まれるようになり、見開きの特集記事が主要ニュース面にふつうに現れるようになった。そして、表紙と裏表紙の両方に変更が加えられた。これにより、販促費には100万ポンド以上が使われた。
これらの変更前は、発行部数は一日約21万7500部で、イギリスの主要な日刊全国紙の中で最低であったが、変更後は、2004年3月時点で発行部数が公称15%増加したとしている(およそ25万部の計算になる。)。2011年4月4日から5月1日までの平均発行部数は180,743部[1]。
がんばれ日本!の表紙
2011年3月13日の日曜版「がんばれ、日本。(Don't give up Japan)」「がんばれ、東北。(Don't give up Tohoku)」の文字に日の丸をあしらった表紙は、スタッフから「日本人の妻が感動的なブログを読んだ」と聞いたジョン・マリン編集長が興味を持ち、東北地方太平洋沖地震で被災したサンドウィッチマンの伊達みきお公式ブログのエントリ「みんな頑張れ!」[2]の英訳文を読み、津波の写真や福島第一原子力発電所事故の写真を掲載すべきだという意見も多かったが、「震災の悲惨さを伝えるのも大切だが、人々を勇気づけるメッセージ発信も新聞の役割」と、伊達のブログからヒントを得て作られたものである[3]なお、伊達のブログの一文「戦後、俺たちのじいちゃんやばぁちゃんは日本を復活させた。世界には奇跡と言われた日本の復興。必ず復興します! 日本をナメるな! 東北をナメるな!」は英訳され、インデペンデント電子版に紹介されている[4]
関連項目
脚注
- ↑ Newspaper Marketing Agency
- ↑ みんな頑張れ! 伊達みきお公式ブログ 2011年3月12日閲覧
- ↑ 英紙1面で「がんばれ日本」 きっかけは芸人ブログ asahi.com 2011日3月16日閲覧
- ↑ Towns vanish, thousands die – but a nation begins its fightback THE INEDEPENDENT 2011年3月13日閲覧(英語)