粟島 (新潟県)
粟島(あわしま)は、新潟県北部の日本海にある島。全島が新潟県岩船郡粟島浦村に属する。
目次
地理
- 面積:9.86km²
- 位置:位置/東経・極東139°16'から極西139°13 北緯・極南38°29'から極北38°26'
- 地勢
- 東西:4.4km
- 南北:6.1km
- 周囲長:23.0km
- 山:小柴山(265.6m)
島の東側の「内浦」、西側の「釜谷」の計2ヶ所の集落によって構成されている。
歴史
縄文時代の遺跡が東海岸に5ヶ所発見されていることから、既にその時代には人が住んでいたと想定される。しかし、弥生時代・古墳時代の遺跡は発見されていない。万葉集第12巻所収の「波の間(ま)ゆ雲居に見ゆる粟嶋の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する児(こ)ら」が文献資料での粟島の初見と思われる。
古代の粟島は史料が残っていないためよくわかっていないが、以下のような伝承がある。大和朝廷の蝦夷征伐によって土地を追われた蝦夷が粟島に上陸し、東海岸(現在の内浦地区)で生活をはじめた。しかし9世紀初め、北九州の松浦党の一族が粟島東海岸へ上陸し、蝦夷を西海岸(現在の釜谷地区)へ追い払って生活をはじめた。その半世紀後、今度は越前国の本保氏一族が粟島東海岸へ上陸し、松浦一族を西海岸へ追い払い、そこで生活をはじめたという。追われた松浦一族は西海岸で生活していた蝦夷を北に追い、西海岸を開拓してそこを拠点とした。やがて北の蝦夷は絶滅し、島には東海岸の本保一族と西海岸の松浦一族のみが残ったという。
中世は揚北衆の一つ色部氏の所領であった。江戸時代になると、村上藩領、天領、庄内藩預所などを経て、宝暦3年(1753年)以降は廃藩置県まで米沢藩預所となった。明治22年(1889年)、粟島浦村が成立し、現在に至っている。 昭和39年(1964年)6月16日午後1時頃に、粟島沖を震源とするマグニチュード7.5の地震(新潟地震)が発生。島全体が約1メートルも隆起した。このため水稲栽培が難しくなり島を覆っていた水田はほとんど姿を消した。
『万葉集』の第12巻に、粟島を描いた詠み人知らずの歌が収録されている。
- 波の間(ま)ゆ雲居に見ゆる粟嶋の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する児(こ)ら
越後守・威奈大村(?年 - 707年)が詠んだ歌とする説がある。
歴代地頭職
- 平為長 - 不明
- 色部公長 - 建長7年3月27日(1255年5月12日)任
- 色部長信 - 文永7年12月14日(1271年2月2日)任
- 色部長綱 - 弘安8年(1285年)
- 長綱の母御前 - 文保2年6月(1318年)任
- 色部長倫 - 元弘3年12月14日(1334年1月28日)任
- 長倫の妻阿妙 - 康永3年(1344年)
- 色部長忍 - 不明
- 色部氏長 - 貞治7年4月15日(1368年5月10日)
- 色部朝長 - 応永3年(1396年)
※就任年月日の後ろに「任」の字があるものは、幕府又は国司の公認を得た日付。
文化財
天然記念物(国指定)
- オオミズナギドリ及びウミウの繁殖地(西海岸一帯)
新潟県指定有形文化財
- 粟島の石造遺物群(文和年間造立の板碑、金箔板碑等)
- 観音寺 木造十一面観音立像(通称やす突観音、平安時代後期の作)
自然
標高265メートルの小柴山を中心に島のほとんどが山地で占められている。海岸線は東海岸は平坦であるが、西海岸は奇岩が多く立ち並ぶ断崖絶壁となっている。また、山地の東海岸が杉や竹で覆われているのに比べ、西海岸は日本海の強風の影響で樹木はほとんど発達していない。
気候
産業
漁業(主に鯛、ヒラメ、タコ)、農業(ジャガイモ、竹製品)、観光産業(釣り、バードウオッチング、自然散策)
交通
- 粟島汽船が運航する航路により新潟県村上市の岩船港と結ばれている。所要時間はフェリーで1時間30分、高速船55分である。使用する船舶は「フェリーあわしま」(1992年就航)と高速双胴船「awaline きらら」(2011年4月15日)の2隻となっている。
特産品
- わっぱ煮
- 真竹炭製品
所属自治体
粟島に関する作品
伝承
5月から6月頃の花曇のような日、海上に巨大魚とも陸地ともつかない物体が浮かんで見える「浮き物」(うきもの)と呼ばれる怪異が伝わっている。おおよそ特定の場所に現れるが、海面を移動することもあり、人が近づくと消え去ってしまうという[1]。魚または海鳥の群れ[1]、未確認の巨大魚などの説がある[2]。
脚注
外部リンク
- 粟島へようこそ(粟島浦村役場公式サイト)ru:Авасима