「恵文王 (秦)」の版間の差分
(→楚討伐と漢中郡設置) |
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2014年8月20日 (水) 10:50時点における最新版
テンプレート:基礎情報 中国君主 恵文王(けいぶんおう)は、中国戦国時代の秦の王。姓は嬴(えい)、諱は駟(し)。父の孝公の方針を受け継ぎ、巴蜀(四川)を征服して秦の国勢を更に高めた。在世時に秦としては初めて王号を唱えたので、王号採用以前の恵文君の称号でも呼ばれる。
生涯
出自
異母弟に樗里疾(ちょりしつ)、子に武王蕩(とう)、昭襄王稷(しょく)。始皇帝の高祖父にあたる。
商鞅粛清
太子時代に商鞅の法に触れて、その罰として傅役(もりやく)の公子虔と教育係の公孫賈がそれぞれ鼻削ぎと刺青の刑にされ、もう一人の太子侍従の祝懽が処刑された過去があった。太子はその事を恨み、孝公の死後に商鞅に罪を被せて討ち取り、その死体を車裂きの刑に処した。しかし商鞅の新法はそのまま使用し、基本的に国政の方針は孝公時代より変えていない。
張儀登用
秦は商鞅の改革により、大幅に国力を増強しており、周辺諸国はこれを恐れ、本来なら主筋であるはずの周から贈り物が贈られるほどであった。
この国力を元に謀略家である張儀を登用して、度々魏・斉・楚などを討ち(テンプレート:仮リンク, テンプレート:仮リンク)、紀元前324年に王号を唱えた。
秦を畏れた諸国は紀元前318年に韓・趙・魏・燕・楚の五ヶ国で連合軍を作り、秦に攻め込んできたが、恵文王は弟の樗里疾に命じてこれを破り、その兵士8万の首を切った。(テンプレート:仮リンク)
巴蜀を併合
また紀元前316年には秦の領域である関中の後ろに大きく広がるテンプレート:仮リンクを併合する。(テンプレート:仮リンク)この地域には三星堆文化を元とした独自の文化を持った国が栄えており、周に対して服属していた。征蜀の前に張儀と司馬錯に対して蜀を取るべきかどうかを諮問したところ、張儀はこれに反対して国の中央である周を取るべきと主張し、司馬錯は蜀を取って後背地を得るべきだと主張した。恵文王は司馬錯の意見を採用して蜀を取り、この事で、秦は大きな穀倉地帯を得、更に長江下流にある楚に対して河を使った進軍・輸送が可能になり、圧倒的に有利な立場に立った。
楚討伐と漢中郡設置
そして紀元前312年、楚が張儀の策謀に嵌って秦に攻め込んで来た時には丹陽(江蘇省丹陽)で返り討ちにし、逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置する。その後、楚が再び侵攻して来た際には、咸陽に近い藍田(陝西省藍田)の地で撃破して、楚衰亡の端緒を作り出す。(藍田の戦い)
翌年に死去。商鞅を憎みながらもその法は保持した事は、同じく国政改革の旗手であった呉起を殺害した楚がその後、呉起の改革の成果を破棄した事と比べて高い評価がある。また巴蜀や漢中を併合した事は、秦が最強国となった要因の一つと評価される。
登場作品
- 『大秦帝国 縦横 〜強国への道』(2011年、中国)演:フー・ダーロン