「河野友軌」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
(相違点なし)

2014年8月21日 (木) 00:42時点における最新版

テンプレート:Infobox baseball player 河野 友軌(こうの ゆうき、1980年11月1日 - )は、埼玉県狭山市出身の元プロ野球選手[1]外野手)。

経歴

プロ入り前

小学3年時、地元の軟式少年野球チームへ入り、中学でも軟式野球部に入った後、埼玉県立狭山清陵高等学校3年時に夏の県大会で準決勝まで勝ち残り、大学関係者の目にとまり、法政大学野球部のセレクションの受験権利を得て合格する[1]

法政大学時代は捕手三塁手外野手の三ポジションでプレーしていた。テンプレート:Byに法大監督山中正竹が指揮する第1回世界大学野球選手権日本代表に法大同期土居龍太郎後藤武敏と共に選出されプロ野球ドラフト会議8巡目で(山中が取締役就任予定の)横浜に入団。少しでも可能性を広げるためにルーキー時代のキャンプには捕手・内野・外野3種類のグローブを持ち込んだ。

プロ入り後

テンプレート:By6月1日広島東洋カープ戦に代打で初出場。6月5日東京ヤクルトスワローズ戦でケビン・ホッジスからプロ初安打を記録した。

テンプレート:By、オープン戦で打率.444、5本塁打と一時は三冠に立つほどの打撃を見せ開幕一軍入りを果たした。しかしシーズンでは結果が残せなかった[1]

テンプレート:Byは二軍でイースタン・リーグ5位の打率.305、5本塁打、9盗塁を記録したが、一軍では無安打に終わった。

テンプレート:Byは二軍で打率.302をマークし、二年連続で3割を記録した。プロ入り初打点を記録。

テンプレート:Byは二軍でも打率.222と不調で、プロ入り後初めて一軍出場なしに終わった[1]

テンプレート:Byも二軍で打率.172と不振で、2年連続で一軍出場が無く、10月1日横浜ベイスターズから戦力外通告を受け、ツテをたどって、いくつかの社会人野球への入社打診をしてもらったが結果は芳しくなく、12球団合同トライアウトへの参加を決めた[1]。11月11日に開かれた一度目のトライアウトに参加し、最終打席でライトポール直撃の本塁打を放つが[1]、その数日後自身のブログで現役引退を表明した。本塁打については「野球の神様が打たせてくれた」と語っている[2][1]。この様子は、同年12月30日に放送されたTBSのドキュメンタリー番組「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」で取り上げられた。

引退後

引退後、今後も何らかの形で野球に携わっていきたいと語っていた。

大学野球部の先輩だった高見澤考史(元オリックス)からの誘いで、高見澤が店長を務める、さいたま市のバッティングセンター[3]2009年2月から勤め、野球塾という形で野球少年たちにコーチングをする[1]ことになった。バッティングセンターの同僚には元オリックスの福留宏紀相川良太らがいる[1]

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 横浜 5 5 5 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .400 .400 .600 1.000
テンプレート:By2 30 20 20 2 5 0 1 0 7 0 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .250 .250 .350 .600
テンプレート:By2 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
テンプレート:By2 13 16 16 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 5 1 .125 .125 .125 .250
通算:4年 51 42 42 4 9 1 1 0 12 1 0 0 0 0 0 0 0 16 1 .214 .214 .286 .500

記録

背番号

  • 00 (2003年 - 2008年)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:横浜ベイスターズ2002年ドラフト指名選手
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 遠藤宏一郎+TBSテレビ「バース・デイ」取材班『戦力外通告』2012年、朝日新聞出版、ISBN 9784022510372
  2. テンプレート:Cite web
  3. 外部リンク「アーデル野球塾」参照のこと。