ファーリヤーブ州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月11日 (月) 01:31時点におけるCommonsDelinker (トーク)による版 ("Afghanistan_map_-_security_by_district_and_opium_poppy_cultivation_by_province_2007_-_2008.gif" を "Afghanistan_map_-_security_by_district_and_opium_poppy_cultivation_by_province_2007_-_2008.png" に差し替え(GifTagger...)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox settlement ファーリヤーブ州テンプレート:Lang-fa[1][2])は、アフガニスタン北部のである。アフガニスタン屈指の大麦の産地で、小麦やトウモロコシやグレープフルーツなどを産出する。アフガニスタンの中でも特にウズベク人が多い地域であり、トルクメニスタンへの玄関口の1つでもある。ファリヤーブ県[3]ファールヤーブ[4]と表記されることもある。面積は2万798平方キロメートル(34州中9位)[5]、総人口94万8000人(34州中8位)[5]、人口密度46人/平方キロ(34州中16位)[5]。州都はテンプレート:仮リンク

地理

日本の四国(1万8301平方キロメートル)より大きい州である。州の3割が平地で[6]、北部はトルクメニスタンのカラクム砂漠から続く砂漠、中部は中山間地、南部は高山になっている。ファーリヤーブ州の北は国境があり、トルクメニスタンに接している。アフガニスタンには北に向かう3つの重要な国境の街(シルハン、ハイーラターン、トゥルゴンディ[7])があるが、ファーリヤーブ州のアンドフボイもそれらに次ぐ国境の街であり、交通の要所になっている。

テンプレート:Clear テンプレート:Gallery テンプレート:Clear

歴史

古代

4世紀頃のファーリヤーブ州はクシャーノ・サーサーン朝の領域で、マイーマナではドラクマ銀貨が見つかっている[8]

近代

1750年、サドザーイー朝アフマド・シャー・ドゥッラーニーがマイーマナを占領した。1849年ごろのマイーマナはウズベク人のアミールが治めるトルキスタンの独立した街で、バーラクザイ朝ドースト・ムハンマド・ハーンやペルシャのガージャール朝が攻めて来たが独立を守った。しかし1884年、バーラクザイ朝のアブドゥッラフマーン・ハーンがマイーマナを占領した[9]

冷戦時代

ファーリヤーブ州は1950年頃はマイーマナ州だったが、1964年4月に現在の名前になった[10]

冷戦終結後

テンプレート:See also

ファイル:Afghanistan politisch 1989.png
1989年のアフガニスタンの状況。赤が政府支配地、薄い青がイスラム協会、濃い緑がイスラム党、薄い緑がシーア派政党

1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退しても、ムハンマド・ナジーブッラーが率いるカブールの共産党政権はなんとか持ちこたえていた。共産党政権はムジャヒディーンに対抗するために、民兵を組織して幹線道路を守らせた。民兵の中心はアフガニスタン北部や北西部出身のウズベク人で、ジョウズジャーン州のラシッド・ドスタムやファーリヤーブ州のアブドゥル・マリクなどが率いていた。しかし1991年にソビエト連邦が崩壊すると民兵に動揺が走った。1992年、ドスタムは共産党政権を見限ってアフガニスタン北部最大の都市マザーリシャリーフで自立し、カブールの共産党政権を倒したがすぐに内戦が始まった。ドスタムは総兵力5万人を擁し、ジョウズジャーン州バルフ州を中心に支配地域を作り上げた。ドスタムの支配地域は宗教的に寛容で、対外的にも一種の独立国のようになっており、ウズベク人が多いファーリヤーブ州もその一部だった。アフガニスタンではその後ターリバーンが誕生し、内戦は三つ巴の戦いとなった[11]

ファイル:1996afghan (1).png
1997年のアフガニスタンの状況。赤がマスード派、緑がドスタム派、黄がターリバーン

1996年、ターリバーンはドスタムやイスラーム統一党の協力を得て、6月にファーリヤーブ州の南隣のゴール州のイスラム協会軍を蹴散らし、9月にはカブールを占領した。それを見たドスタムらは今度はイスラム協会軍と協力して、ターリバーンと戦い始めた。しかしドスタム軍の内部ではドスタムとマリク将軍が激しく対立していた。1997年5月、ターリバーンはマリク将軍と協力してマザーリシャリーフを占領し、ドスタムはトルコに逃亡した。しかしすぐに両者は対立し、ターリバーンは大敗してマザーリシャリーフを追われた(第一次テンプレート:仮リンク)。9月、ターリバーンはマザーリシャリーフに再度侵攻してきたが[12]、マリク将軍が避難している間にドスタムがトルコから戻ってきてターリバーンを撃退した[12]。11月、ドスタムはマリク将軍を攻撃し州都マイーマナを占領したので、マリク将軍はトルクメニスタンに逃亡した[12]。12月、ターリバーンはバードギース州の州都を占領し、ファーリヤーブ州に侵攻してきたがドスタムに撃退された[12]。その際、ターリバーンはカイーサール郡でパシュトゥーン人の民間人を虐殺し、民族浄化を行ったという説がある[13]。1998年6月、ドスタムはバードギース州の州都を占領しヘラートに向かったが、逆襲されてファーリヤーブ州やジョウズジャーン州を失った[13]。8月にはマザーリシャリーフまでもが陥落し(第二次マザーリシャリーフの戦い)、ドスタムの支配地域は崩壊した。同年、アフガニスタン北東部で地震や旱魃が続き、数千人が死亡した。1999年からは国際連合の制裁が始まり、それに反発したターリバーンは2001年2月、バーミヤーン州の仏像を破壊して力を誇示した[11]

アメリカ同時多発テロ事件以降

ファイル:Afghanistan map - security by district and opium poppy cultivation by province 2007 - 2008.png
2007年の治安状況。危険は低いが麻薬栽培が行われている

2001年9月、アメリカ同時多発テロ事件が起きた。10月にはアメリカ合衆国がアフガニスタンに侵攻し、有志連合北部同盟と共に戦闘を開始した。ドスタムは北部同盟に加盟し、イスラム協会のアタ・モハマド・ヌールと協力して、11月にアフガニスタン北部からターリバーンを追い払った[14]。ドスタムは北部を再び支配しようとしたが、アタもまた野心を持っていた。ドスタムとアタは約2年間、バルフ州やその周辺で小競り合いを続けた。2003年10月、戦闘は本格化し数十人の死者が出た為、国際社会や政府は2人の戦争卿(英語: warlord)に圧力をかけて戦争を中止させた[15]。調停の結果、ドスタムはバルフ州からは手を引いたが、国際社会と政府は武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)を進めて、ドスタムとアタから兵士や武器を取り上げた[16]。治安維持は国際治安支援部隊(ISAF)が行うことになり、第一段階として2003年12月からアフガニスタン北部で活動を開始した。ファーリヤーブ州の担当はノルウェイ軍が指揮するマイーマナ地方復興チームで、2004年から任務を開始した。更に政府はドスタムの支配地域を解体しようとした。怒ったドスタムは2004年4月に州都マイーマナを占領して抗議したが[17]、あまり効果はなかった。ドスタムは国防次官を解任されそうになったので[18]、辞職して2004年の大統領選挙に出馬し、ファーリヤーブ州では圧倒的な1位の約23万票(約73%)を獲得した[19]。2005年3月、カルザイ大統領はドスタムを参謀総長に任命したが[20]、軍閥解体の動きは続いた。2007年5月にドスタムの本拠地のジョウズジャーン州で知事の部下がドスタム派のデモ隊に発砲し数十人の死傷者が出たので[21]、ファーリヤーブ州でも緊張が走った[22]

2005年9月、第一回の下院選挙(Wolesi Jirga)と州議会選挙が行われた。2007年、戦争は激しさを増し、自爆テロ無差別爆撃によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出た[23][24]。ファーリヤーブ州の治安は比較的良好だったが、麻薬栽培やドスタム派の問題があり、ターリバーンによるIED攻撃も始まった[6]。2008年は雨不足で穀物が不作だったので、アフガニスタン北部や北西部、中央高地などで食料価格が上昇し、出稼ぎや難民が発生した[25]。同年、ターリバーンの拠点があるバードギース州のゴールマーチ郡をファーリヤーブ州の管轄とし、イタリア軍ドイツ軍やノルウェイ軍が支援することにした[26]

第二回大統領選挙後

2009年には第二回の大統領選挙が行われ、ファーリヤーブ州ではドスタムが応援するカルザイ大統領(約60%)がアブドラ・アブドラ元外相(約30%)を押さえて1位になった[27]。2010年、第二回の下院選挙と州議会選挙が行われたが、戦争は更に激しくなりISAFや民間人の死傷者が急増した[28][29]。またアメリカ人牧師がコーランの焚書を行ったせいで、アフガニスタンの国民感情が悪化し[30]、ファーリヤーブ州の警察官が米兵に発砲する事件が起きた。2011年以降、ファーリヤーブ州でも自爆テロが頻発し、多数の死傷者が出た。2011年12月、中国石油天然気集団(CNPC)はファーリヤーブ州などで石油開発を始めた[31]。2012年9月、ノルウェイ軍はファーリヤーブ州の治安権限をアフガニスタン軍に委譲し、バルフ州に撤退した[32]。しかし基地の設備はもぬけの殻で、譲り受けたアフガニスタン軍の士気は高くないという[33]

行政区分

ファイル:Faryab districts.png
ファーリヤーブ州の郡

1市13郡を擁する[5]

  1. Almar(アルマール郡[2]
  2. Andkhoy(アンドホーイ郡[2]) - アンドフボイ
  3. Bilchiragh(ビルチラーグ郡[2]
  4. Dawlat Abad(ダウラターバード郡[2]
  5. Gurziwan(グルジーワーン郡[2]
  6. Khani Charbagh(ハーニ・チャールバーグ郡[2][34]
  7. Khwaja Sabz Posh i Wali(フワージャ・サブズ・ポーシ・ワリー郡[2]
  8. Kohistan(コーヒスターン郡[2]
  9. Maimana - (州都: テンプレート:仮リンク[2]
  10. Pashtun kot(パシュトゥーン・コート郡[2]
  11. Qaram Qul(カラムクル郡[2]
  12. Qaisar(カイサール郡[2]
  13. Qurghan(クルガーン郡[2]
  14. Shirin Tagab(シーリーン・タガーブ郡[2]

都市

人口が最も多いのは南部のパシュトゥーン・コート郡(約18万人)で、すぐ隣のカイサール郡(約14万人)にも多くの住民が居る[6]

産業

農業

ファーリヤーブ州の農作物 (2012年度)[35]
種類 生産量 順位
小麦 32万9000トン 4位
大麦 3万9096トン 2位
とうもろこし 1万7820トン 6位
グレープフルーツ 8800トン 4位
綿花 55トン 12位
アーモンド 50トン 20位
25トン 16位
りんご 19トン 28位

ファーリヤーブ州は農業が盛んで、農業収入が家計収入の半分(53%)を占めている[6]。特に小麦(34州中4位)や大麦(34州中2位)、グレープフルーツ(34州中4位)の生産は全国的に見ても盛んで、トウモロコシ(34州中6位)もかなり生産されている。一説によると、小麦の農地は20万5000ヘクタールに及び、日本の四国の耕地面積(14万4400ヘクタール)[36][37]よりも広い。大麦(2万1720ヘクタール)やトウモロコシ(8100ヘクタール)を合わせると、かなり広大な農地が広がっているようである。

鉱業

アフガニスタン北西部の地底にはトルクメニスタンから数百キロ続く広大なアムダリヤ堆積盆地(Armu Darya Basin)があり、天然ガス石油が埋まっている[38]。冷戦時代、アフガニスタンでも他の産油国と同じように資源開発が始まり、ファーリヤーブ州の東隣にあるサーレポル州を中心に油田が見つかった。ファーリヤーブ州でもザマードサイ油田(Zamurdsay)などの有望な油田が見つかり、ジョウズジャーン州では3つの有望なガス田が見つかった[39]。この地域の6大油田の推定埋蔵量は8800万バレルに達したが[40]、その後の内戦で生産量はほぼゼロになり、新規開発も行われなくなった[39]。8700万バレルの石油[40]が20年以上も未採掘のまま残っていたアフガニスタン北西部の資源開発が再開したのは、2010年代に入ってからである。2011年12月、中国石油天然気集団(CNPC)がサーレポル州などで石油生産を始めた[31]

交通

テンプレート:See also ファーリヤーブ州には幹線道路のアジアハイウェイ76号線(マザーリシャリーフ・ヘラート高速)が走っており、ヘラートやカブールと繋がっている[7]。現在、カイサール郡以降の舗装工事が進められている[41]。また76号線はアンドフポイで一般道に接続し、トルクメニスタンと繋がっている[42]。アンドフボイには幾つかの鉄道計画があり、2011年に完成したウズベキスタンとマザーリシャリーフ(バルフ州)間の鉄道の延伸や[43]、トルクメニスタンのレバプ州ケルキとアンドフボイ間の鉄道の建設[44]を予定している。

治安

  • 2006年2月 - ムハンマド風刺漫画掲載問題に対するデモが全国で発生。マイーマナでは暴徒化し、ISAFの基地に乱入(3人死亡、ノルウェイ兵5人他30人負傷)[45]
  • 2008年8月 - IEDが爆発(1人死亡、ラトビア兵3人・市民13人が負傷)[46]
  • 2010年1月 - 中国人技師2人等が誘拐(解放)[3]
  • 2010年6月 -アルマール郡でISAF軍の車列をIEDが直撃(ノルウェイ兵4人が死亡)[47]
  • 2011年4月 - マイーマナで国際クルアーン焼却日に激怒した国境警備隊の警察官がISAFに発砲(米兵2人死亡)[48]
  • 2011年10月 - マイーマナで治安関係者の車列に対する自爆テロ(少年1人死亡、アフガニスタン国家保安局のSayed Ahmad Sadat 将軍など4人が負傷)[49]
  • 2012年4月 - マイーマナで自爆テロ(米兵4人など14人が死亡、負傷多数)[50]
  • 2012年10月 - モスクの祭りで自爆テロ(警察官など41人が死亡、56人が負傷)[51]
  • 2013年2月 - レストランで爆発(5人死亡、7人負傷)[52]
  • 2013年11月 - 仏NGOのアフガニスタン人職員を襲撃(6人死亡)[53]

住民

民族

ファーリヤーブ州で最も人口が多いのはウズベク人パシュトゥーン人だと言われている[6]。アフガニスタンの中でも特にウズベク人が多い地域の1つで、人口の半分以上(約54%)をウズベク語話者が占めている。その他にはタジク人トルクメン人が続く[6]。またクチ族やアイマーク人などの遊牧民も居るようである。

言語

ファーリヤーブ州の言語はウズベク語(54%)とダリー語(27%)が8割を占め、パシュトゥー語(17%)が続く[6]。識字率は18%である[6]

主な出身者

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:Navbox テンプレート:Geographic location

テンプレート:Afghan-stub
  1. テンプレート:Lang-*-Latn
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「gn」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  3. 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
  4. YAHOO!JAPAN地図
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「ira」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 テンプレート:Cite web
  7. 7.0 7.1 テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite book
  9. 「アフガニスタンの歴史と文化」P355, 394, 397, 417
  10. テンプレート:Statoids
  11. 11.0 11.1 テンプレート:Cite book
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 テンプレート:Cite web
  13. 13.0 13.1 テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite news
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. テンプレート:Cite web
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. テンプレート:Cite web
  23. テンプレート:Cite web
  24. テンプレート:Cite web
  25. テンプレート:Cite web
  26. テンプレート:Cite web
  27. テンプレート:Cite web
  28. テンプレート:Cite web
  29. テンプレート:Cite web
  30. テンプレート:Cite web
  31. 31.0 31.1 テンプレート:Cite web
  32. テンプレート:Cite web
  33. テンプレート:Cite web
  34. Khan Chahar Bagh
  35. テンプレート:Cite web
  36. テンプレート:Cite web
  37. 30900+31800+53100+28600
  38. テンプレート:Cite web
  39. 39.0 39.1 テンプレート:Cite web
  40. 40.0 40.1 テンプレート:Cite web
  41. テンプレート:Cite web
  42. google mapで確認
  43. テンプレート:Cite web
  44. テンプレート:Cite web
  45. テンプレート:Cite web
  46. テンプレート:Cite web
  47. テンプレート:Cite web
  48. テンプレート:Cite web
  49. テンプレート:Cite web
  50. テンプレート:Cite web
  51. テンプレート:Cite web
  52. テンプレート:Cite web
  53. テンプレート:Cite web