カスピ海

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ファイル:Caspianseamap.png
カスピ海周辺の地図。黄色の部分が集水域である

カスピ海(カスピかい、テンプレート:Lang-ru)は、中央アジア東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大のである。カスピの名は古代に南西岸にいたカス族あるいはカスピ族に由来する。カスピ海に近い現在のイラン・ガズヴィーン州都Qazvinは同じ語源であると言われる。現代のペルシア語では一般に「ハザール海」と呼ばれるが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサス黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する(現代ペルシア語では、カスピ海南岸のイランの地名から「マーザンダラーン海」とも呼ばれる)。また、トルコ語でも同様の名で呼ばれる[1][2]中国語では現在に至るまで裏海(りかい)と呼ばれる。

概要

この湖に接している国は、ロシア連邦ダゲスタン共和国カルムィク共和国チェチェン共和国アストラハン州)、アゼルバイジャン共和国イランマーザンダラーン州など)、トルクメニスタンカザフスタンである。

主な流入河川にはヴォルガ川ウラル川クラ川テレク川などがあり、流入河川は130本にものぼるが、流れ出す河川は存在しない。アゾフ海とはクマ=マヌィチ運河ヴォルガ・ドン運河によって繋がっている。

面積374,000 km²ある。なお日本の国土面積は377,835km²なので、カスピ海のほうがわずかに狭い。水の量は78200km3にのぼり[3]、世界のすべての湖水の40%から44%を占める.[4]。塩分濃度は北部と南部では異なり、北部ではヴォルガ川などの流入で塩分が薄く、南部ではイランからの流入河川が少ないため塩分が濃いとされる。湖全体の平均塩分濃度は1.2%であり、海水のほぼ3分の1である。

カスピ海は北カスピ海と中カスピ海、南カスピ海とに分かれ、性質が大きく異なる。北カスピ海は大陸棚が発達しており,[5]、非常に浅い。平均水深は5mから6mであり、水量はカスピ海全体の水量の1%にしかならない。浅い上に多くの河川の流入によって塩分濃度が低く、さらに気候ももっとも寒いため、北カスピ海は冬季には結氷する。中カスピ海に入ると水深は急速に深くなり、平均水深は190mとなる。中カスピ海は全水量のうち33%を占める。南カスピ海はもっとも深く、マイナス1000mに達する地点もある。南カスピ海の水量は、全水量の66%を占める。

湖の北から東にかけては中央アジア大草原ステップ)が広がる。一方、西部にはコーカサス山脈が延び、南岸にはアルボルズ山脈が走る。東岸はテンプレート:仮リンクカラクム砂漠が広がる。北東岸は冷たい大陸性の気候である一方、南岸や南西岸は山地の影響を受けるものの基本的に暖かな気候である。

カスピ海には多くの島々がある。島はどれも沿岸近くに位置し、湖の中心部近くにはまったく存在しない。もっとも大きな島はテンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-tk)で、他にアラーウッディーン・ムハンマドで知られるテンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-fa)などがある。

多くのチョウザメが生息し、その卵はキャビアとして加工されている。乱獲によりその個体数は減っており、専門家は数が回復するまで捕獲を完全に禁止することを提唱している。

カスピ海の水質や周辺諸国の境界線をどのように引くかということが問題になっている。国際法上、この水域を海とするか湖とするかで、沿岸各国の利益が変わる[6]

石油開発

カスピ海周辺には大量の石油が埋蔵されている。開発も古くから行われ、はやくも10世紀には油井が掘られていた[7]。世界初の海上油井ならびに機械掘削の油井は、バクー近郊のBibi-Heybat Bayで建設された。1873年に、当時知られていた中では世界最大の油脈であるこの地方での近代的な油田の開発が始まり、1900年にはバクーには油井が3000本掘られ、そのうち2000本が産業レベルで石油を生産していた。バクーは黒い金の首都と呼ばれ、多くの熟練労働者や技術者を引き寄せた。20世紀の幕が開けるころには、バクーは世界の石油産業の中心地となっていた。1920年にはボリシェビキがバクーを制圧し、すべての私有の油井は国有化された。1941年にはバクーを中心とするアゼルバイジャンの石油生産量は2350万トンとなり、ソヴィエト連邦の全石油生産の72%にものぼった[8]

カスピ海で最も早く油田生産が始まったアゼルバイジャンがバクーを中心として一大石油生産地となっており、ロシア、カザフスタン、トルクメニスタン、イランでも探鉱が進められている。カザフスタンで開発中のカシャガン油田には日本を含め大手石油企業が参加している。西欧へ輸出するために、地中海に達するBTC(バクー・トビリシ・ジェイハン)パイプライン2006年に建設された。

地史

カスピ海は黒海や地中海と同様にテチス海の名残である。大陸移動により550万年前に陸地に閉じ込められた。海水の塩分濃度が世界の海の3分の1になったのは一度干上がり、塩分が岩塩として沈殿したためと考えられる。かつては、現在干上がった河床を通って、アムダリア川が東からカスピ海に注ぎ込んでいた。アムダリア川からカスピ海に注ぎ込むルートは2つあり、ひとつはアムダリア川下流のホラズム地方から西進し、サリカミシュ湖へと流れ込み、そこからウズボイと呼ばれる涸れ谷を通ってカスピ海中部、現在のトルクメンバシュ市南方でカスピ海へと注ぎ込むルート。もう一つはアムダリア中流域のケリフからまっすぐ西進し、メルヴ市の北方を通り、トルクメニスタンの西部でウズボイと合流するケリフ・ウズボイである。

ケリフ・ウズボイははるか古代にカスピ海へと流入しなくなったが、ウズボイは歴史時代に入ってもカスピ海への流入を続けた。水深や川幅から見て、アムダリア川の水量の75%がアラル海方面に、25%がカスピ海方面に流れたと考えられている。しかしやがて、気候の乾燥化やホラズム地方の農業の活性化により、ウズボイの流量は減少し、やがてカスピ海に流入しなくなった。ウズボイがカスピ海に流入しなくなったのは、1470年から1575年の間であると推定されている[9]

カスピ海の海面変動

カスピ海の水位は何世紀にも亘り上下の変動を繰り返してきた。ロシアの歴史家たちは中世における水位の上昇がハザール王国のカスピ海沿岸の町に洪水を引き起こしたと述べている。

カスピ海の海面は、19世紀にはおおむね海抜 -25~-26mで上下していたが、20世紀に入ると低下しはじめ1930年代には2m弱急激に低下した。その後、1977年まで海面の低下が続いた。このため、1980年にはカスピ海の海面低下を防ぐためカラ・ボガス・ゴル湾を結ぶ海峡が堰き止められ、塩害など別の災害を引き起こした。その後、1977年を境に水位は上昇に転じ、1995年には最高水位に達し、沿岸では洪水が起きるようになった。1996年からは再び減少に転じている。

過去2000年の間でも、海抜-22mから-34mの間で大きく変動したと考えられている[10]

歴史

カスピ海は、北のヴォルガ川流域と南のイランを結ぶ交易ルートとして、9世紀ごろにはヴォルガ交易ルートの一部となっていた。このころ、カスピ海沿岸域には交易国家であるハザール王国が成立し、栄えた。その後、いくつかの勢力の交代があった後、13世紀には沿岸全域がモンゴル帝国の領土となった。やがてモンゴルの分裂により北岸をジョチ・ウルスが、南岸をフレグ・ウルスが支配した。近代に入ると、北からロシアが徐々に進出を始める。1556年には北岸にあったアストラハン・ハン国ロシア・ツァーリ国イヴァン4世が滅ぼし、北岸を支配下におさめた。1668年にはスチェパン・ラージンがヴォルガ川からカスピ海沿岸を略奪し、サファヴィー朝ペルシア領だった南岸のラシュトまで到達して劫略をおこなった。しかし、ロシアが本格的にカスピ海へと進出を始めるのは18世紀初頭のピョートル大帝の時代である。ピョートルはカスピ海に遠征軍を派遣し、調査を行ってカスピ海の地図を刊行させるとともに、1722年にはアストラハンにカスピ小艦隊を設置して制海権の確保に乗り出した。その後、19世紀初頭にはコーカサスなどのカスピ海西岸がロシア領となり、さらに1869年にはカスピ海東岸にクラスノヴォツク(現在のトルクメンバシ)要塞を建設し、ここを橋頭堡としてトルクメニスタン地方へと進出し、19世紀末には南岸を除いたほぼ全域がロシア領となった[11]

国際紛争

カスピ海周辺国家間で10年に及ぶ領海確定協議が続いている。カスピ海を海ととらえるか湖ととらえるかで、主に3点が問題となる。つまり鉱物資源(石油・天然ガス)、漁業そして国際水域としてのアクセス。とくに黒海やバルト海へ抜けるヴォルガ川とのリンクは内陸国であるアゼルバイジャン、トルクメニスタン、カザフスタンにとって重要である。カスピ海が海であれば外国船の通過を許す国際条約が有効となり、湖であればその義務がなくなる。これには環境問題も関係する。また、鉱物資源の使用範囲も海か湖かによって左右され、海とした場合では領海排他的経済水域が設定され、沿岸国の使用が決定・保証される。しかし、鉱物資源は中部から北部にかけて多く、南部には少ないので資源面ではイランは反対している。湖では海洋法が適用されず、主に話し合いなどで決められ、自分の資源が減る可能性も高いのでロシアなどは反対している。なお、カスピ海では旧ソ連時代の艦艇を引き継いだロシアの軍事プレゼンスが最も高い。

一方、領土以外の環境問題等についてはある程度の協力体制の構築が見られる。2003年11月4日、トルクメニスタンを除く沿岸4カ国は「カスピ海環境保護枠組み条約」をテヘランで調印[12]。のちにトルクメニスタンも加盟し、2006年8月12日に発効した。

脚注

  1. دايرة المعارف فارسى، جلد اول، ص٨٩٣-٨٩٥
  2. 『岩波 イスラーム辞典』、pp.263-264.
  3. Lake Profile: Caspian Sea. LakeNet.
  4. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  5. Kostianoy, Andrey and Aleksey N. Kosarev. The Caspian Sea Environment (Hardcover). Springer. Retrieved 28-01-2008.
  6. 湖を国際法上「海」に擬制した例として五大湖アメリカ合衆国カナダ)がある。
  7. The Development of the Oil and Gas Industry in Azerbaijan SOCAR
  8. The Development of the Oil and Gas Industry in Azerbaijan SOCAR
  9. 「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」p13-16 岩波新書 加藤九祚 2013年9月20日第1刷
  10. The Caspian Sea United Nations University
  11. 「中央ユーラシアを知る事典」p125-126 2005年4月11日初版第1刷 平凡社
  12. [1]

関連項目

外部リンク

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