Yak-38 (航空機)

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テンプレート:Infobox 航空機 Yak-38(テンプレート:Lang-ru ヤーク・トリーッツァチ・ヴォースィェミ)は、旧ソ連ヤコヴレフ設計局で開発された垂直離着陸機(VTOL機)。軽襲撃機艦上攻撃機)として運用された。北大西洋条約機構(NATO)が使用したNATOコードネームでは、「まがい物」という意味の「フォージャー」(Forger)と呼ばれた。

やや先行して開発されたイギリスホーカー・シドレー ハリアーと類似した能力を持つが、ハリアーが陸上での運用を前提に開発され、後に艦上機版のシーハリアーが派生したのに対して、Yak-38は当初から艦上機として開発されており、世界初の艦上V/STOL機となっている。主な派生型としては、原型試験機のYak-36M、複座練習機型のYak-38U、単座改良型のYak-38Mがあった。

来歴

1967年夏、旧ソ連海軍総司令官セルゲイ・ゴルシコフ元帥は、試作VTOL機であるYak-36の性能に感銘を受け、当時建造が計画されていた1123.3型対潜巡洋艦(モスクワ級)への搭載を指示した[1]。12月、ソ連政府はYak-36を原型とした軽襲撃機としてYak-38を設計するよう、ヤコヴレフ設計局に要請した[2]。また1968年9月2日には、航空運用能力が不足と考えられた1123.3型の建造は中止され、かわって、より大型で強力な航空運用能力を備えた1143型対潜巡洋艦(キエフ級; のちに重航空巡洋艦に種別変更)の建造が指示された[3]

まず原型試験機としてYak-36M(「Yak-36の改良型」の意味)が開発され、1969年1月、海軍総司令官と空軍総司令官は、Yak-36Mの作戦・技術規則(要求)を承認した。1970年3月に技術案が承認され、その翌月にはさっそく初号機が完成、数ヶ月後には2・3番機も完成して、各種試験が進められた[3]。この試験に供するため、ヘリコプター巡洋艦「モスクワ」のヘリコプター甲板は耐熱鋼板に換装され、さらにその上にAk-9F耐熱材を設置した特別発着プラットフォーム(20m四方)が設けられた。1972年11月18日デクスバフの操縦するYak-36Mが同艦に初めて着艦し、「ソ連海軍艦上機の誕生日」として記録された。1973年、ソ連政府は、Yak-36Mを1143型重対潜巡洋艦の搭載機、Yak-38軽襲撃機として生産するよう指令した[2]

設計

Yak-36Mの作戦・技術規則(要求)において、同機は「仮想敵の艦艇や地上目標、長距離レーダー偵察機、輸送機、哨戒ヘリコプターを破壊するV/STOL軽襲撃機」として規定されていた[3]

動力

ファイル:Yak-38 Lift Engines NT.PNG
VTOL時の排気の流れ

本機は、推進用の主エンジンとは別に2基の離昇用エンジン(リフトエンジン)を搭載して垂直離着陸を行う方式を採用した。垂直離着陸時には、前部荷重をリフトエンジンが、後部荷重を推力偏向した主エンジンが支える方式とされている。ハリアーのロールス・ロイス ペガサスでは前・後部偏向ノズルがともに主エンジンのパワーに頼るのに対し、本方式の場合は水平飛行時にはリフトエンジンは完全なデッドウェイトになることから、燃料や兵装の搭載量で不利となる。また短距離発進(STO)を行う場合には、ペガサスの場合は単純にノズルの角度を変更すれば良いのに対し、本方式の場合はノズルの角度を変えるだけでなく、主エンジンとリフトエンジンの出力を微調整していく必要があることから、技術的な難度が非常に高くなるという問題もあった。このため、本機は当初はSTOを行わない、純粋なVTOL機として運用されていた[4]

このため、クリミア半島にあった黒海艦隊のテンプレート:仮リンクにおいて、精力的にSTO技術の開発が行われた。出力の微調整を手動で行うことは非現実的であり、スロットル操作だけで適切な推力とノズル角度をコントロールする装置の開発が志向された。コンピュータが未発達の当時、これは技術的には非常な冒険であったものの、1978年12月13日より実際のSTOLでの試験が開始され、1979年1月9日までに27回のテストを行ったのち、「ミンスク」での艦上試験に移行した[5]。同年に同艦が極東に回航された際に行われた565回/300時間の飛行のうち、120回はSTOによる発艦であったと記録されている。またこの航海の途上で、低緯度地域の高温・高湿度環境では、特に離昇用エンジンの性能低下が顕著である(酷い例だと、1回の垂直離艦で燃料の3割近くを消費してしまい、その後の飛行可能時間は20分に過ぎなかった)ことが判明し、STO技術の開発が急務であると考えられ、さらに技術開発が進められた。この結果、当初VTOL運用時にはペイロード750kg搭載で航続距離185kmであったものが、短距離離艦/垂直着艦(STOVL)運用とすることで、2トンを搭載して400km、1トンに減らせば600kmにまで延伸された[4]テンプレート:Clearleft

機体

本機の機体構造の特徴は、実用機としては世界で初めてアルミ・リチウム合金を大規模採用している点にある。本機で採用されたのは01420と呼ばれる材料で、主翼の上面外板や胴体に採用された[6]

油圧システムとしては、メイン、アクチュエータ、バックアップの3系統に分離されている。メインは補助翼昇降舵・主翼折りたたみに、アクチュエータは降着装置高揚力装置などに用いられ、バックアップはメイン故障時に使用される。作動液としては、メインでは通常の油圧作動油を使う一方で、アクチュエータとバックアップではジェット燃料が用いられるという非常にユニークな手法が採用された。これは燃料のほうが油圧作動油よりも比重が小さく軽量化につながると期待しての措置であったが、実際の重量削減効果はわずかなものであったと考えられており、後継のYak-141では全系統が通常の油圧作動油を用いるように変更されている[6]

ソ連初の実用V/STOL機にして初の艦上機であったことから事故損耗が多発したが、皮肉にもこのような事態が緊急脱出時の射出座席の性能を上げることとなり、原型機のKYa-1Mにかえて、量産機では高性能のK-36射出座席が搭載された。本機で採用されたK-36VMにおいては、VTOLモードの際にピッチとヨーの変化率が規定値を超えた場合、パイロットの操作に関係なく、自動的に射出座席が作動するよう設定されている。これは低高度でVTOLモードを使用中に故障が生じた場合にはパイロットがこれに対応できる時間的余裕が乏しいことから採用された措置であった[6]。計36機が様々な事故で失われたが、うち31機でパイロットが生還している[3]

装備

本機は基本的に昼間攻撃機であり、レーダー火器管制システム(FCS)はもちろん測距レーダーも備えていない。照準装置としては光学式のASP-PFD-21を備えているが、これはMiG-21PFで搭載されたものと同型である[6]

兵装は両翼下4ヶ所(左右2ヶ所ずつ)のハードポイントに搭載される。固定武装は持たず、1980年から胴体下面に装着するテンプレート:仮リンクガンポッドGSh-23機関砲と弾丸160発を収容)の試験が開始されたものの、装備化の決定は1989年まで遅れたことから、実際にはハードポイントに吊下するためのUPK-23-250ガンポッド(GSh-23機関砲と弾丸250発を収容)が用いられることが多かった[6]

ハードポイントに搭載される兵装としては、赤外線ホーミング誘導のR-60(AA-8「エイフィド」)短距離空対空ミサイルテンプレート:仮リンク(AS-7「ケリー」)無線指令誘導空対地ミサイルS-5ロケット弾FAB-100FAB-500無誘導爆弾を運用できた。

配備

テンプレート:Triple image stack 1974年よりサラトフ航空機製造工場で量産機の製造が開始され、1975年5月18日にはYak-36Mが「キエフ」に初着艦を記録。10月24日、サキ飛行場にて、マトコフスキー大佐を連隊長としてソ連海軍初の「艦上飛行連隊」が編制された。1977年、Yak-38は1143型の搭載機として、正式に海軍に引き渡された。1989年までに派生型各種を含めて計231機が製造された。総飛行時間は29,425時間であった[3]

兵装搭載量と航続性能の不足は、軽襲撃機であるYak-38にとっては問題であった。実際、ソ連のアフガニスタン侵攻に伴い、陸軍の要請を受けて、1980年に数機が同地に派遣されて対地攻撃任務に投入されたものの、肝心の対地攻撃能力がシステム・兵装両面で不足しておりほとんど役に立たなかった。結局、この任務のために特別の迷彩を施した若干機数が試験的に投入されただけでYak-38の実戦運用は終了した。

VTOL機の応援者であったドミトリー・ウスチノフ国防相1984年に、ゴルシコフ総司令官が1985年に死去すると、海軍はVTOL機への興味を急速に失っていった。1991年には予備役編入され、1992年には除籍された。母艦とされていた1143型重航空巡洋艦(就役後に艦種変更)も1993年までに4隻中3隻が退役、残る「バクー」も短期間のみヘリ空母として活動した後、MiG-29Kを運用するSTOBAR空母として改装の上でインド海軍に売却された[4]

成功作とはいえなかったYak-38であったが、その開発経験は次なるVTOL機の開発に大いに生かされた。しかし、後継機としてはるかに高性能の超音速VTOL戦闘機Yak-141が設計・製造されたときにはソ連が崩壊し、その生産は行われなかった。Yak-141のために開発された推力偏向ノズルなどのノウハウは売却され、アメリカのF-35Bに転用された。

Yak-38は当初Yak-36Mとして開発されていたためか、冷戦期の西側ではYak-36としてYak-38の姿が描かれることが多かった。

派生型

Yak-36M
原型試験機。3機を製造。
Yak-38
基本型。143機を製造。
Yak-38M
Yak-38を元にした発展型。エンジンを強化。53機を製造。
Yak-38U
複座練習機型。副操縦装置を備えた後席があり、ノーズコーンを変形させ、機首のレドームを撤去した。キエフ型航空巡洋艦には、地上との連絡用に最低1機が搭載されていた。38機を製造。

テンプレート:Clearleft

諸元

テンプレート:航空機スペック

参考文献

テンプレート:Reflist

外部リンク

関連項目

テンプレート:Sister

  • テンプレート:Cite journal
  • 2.0 2.1 テンプレート:Cite journal
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 テンプレート:Cite journal
  • 4.0 4.1 4.2 テンプレート:Cite journal
  • テンプレート:Cite book
  • 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 テンプレート:Cite book