W3事件

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テンプレート:Sidebar with collapsible lists W3事件(ワンダースリーじけん)は、手塚治虫が漫画『W3』の掲載誌を『週刊少年マガジン』から『週刊少年サンデー』に切り替えた出来事のことである。本項ではそれに至った経緯についても解説する。

概要

虫プロダクションは1965年当時にアニメ用の作品を企画していたところ、それとそっくり同じ企画が他のプロダクションから製作されていることがわかり、虫プロダクションの中で産業スパイがいるのではないかという疑惑が起こった[1]。そして、虫プロダクションの社員たちの中でもその疑惑が話題になり、何人かが虫プロダクションを辞めることになった[1]

手塚はそのアニメの企画を『W3』という名前で並行して『週刊少年マガジン』で連載することになるが、連載6回目で『週刊少年サンデー』に掲載誌を変更した。この突然の掲載誌変更が「W3事件」である。

連載誌を変えた理由について手塚は、「虫プロダクションの事情」と「W3のスポンサーはロッテで宇宙少年ソランのスポンサーは森永という広告業界の関係」と語っている[1]。また、手塚はこの件に関しては誰も責めておらず、講談社漫画全集のあとがきにおいては、講談社に迷惑をかけたことについて謝罪している[1]

「事件」に至るまでの経緯

手塚はじめ虫プロダクションは、『ジャングル大帝』に続くアニメ作品として、雑誌『日の丸』に連載されていた『ナンバー7』のアニメ化を企画する。しかし、よく似た設定の『レインボー戦隊ロビン』が東映動画より企画されたため、作品が類似することを嫌った虫プロは、タイトルはそのままに設定の大幅な変更を行った。この時の設定は、当時の『007』を中心とするスパイ映画の流行を受け、星光一(ほしこういち)という諜報部員の活躍を描いたものとなった。さらにマスコットとして宇宙リスの「ボッコ」が主人公の相棒につけられ、このボッコには主人公とテレパシーで会話する、空を飛ぶ、発光する、透明になる、といった特殊能力が備わっていた。

ところが、TBSなどの制作するアニメ『宇宙少年ソラン』に、ボッコとよく似たリスの「チャッピー」が登場することが判明したため、虫プロは企画を抜本的に見直すことを余儀なくされ、タイトルも新たに『W3』とした。また、虫プロダクションの中に企画を口外した産業スパイがいるのではないかという疑惑が起こり、豊田有恒らが虫プロダクションを退社した。『W3』は『ナンバー7』とは打って変わってSF色の強い作品となったが、星光一が主人公星真一の兄となり(コードネームは「F7号」)、ボッコがW3の隊長の名前に流用されたことで(容姿はウサギ)、かろうじて『ナンバー7』時代の名残をとどめている。

マガジンでの連載開始からサンデーへの移籍まで

手塚は『週刊少年マガジン』からの依頼を受け、アニメに先行して1965年13号(3月21日)から同誌にコミカライズ版を連載することになり、手塚の獲得という『週刊少年マガジン』にとって創刊以来の悲願が叶えられたかに見えた。しかし、森永が少年マガジンと『ソラン』双方のスポンサーであった絡みで、手塚にとって因縁の『ソラン』もマガジンに掲載されることになってしまった。それを知った手塚は、『ソラン』の連載中止を『少年マガジン』編集部に申し入れたが受け入れられなかったため、『少年マガジン』への連載を6回で打ち切り、設定を一部変えてライバル誌の『週刊少年サンデー』で『W3』の連載を始めてしまう。これについて、手塚は講談社側から打ち切りを言い渡されたとしているが、当時『少年マガジン』編集者であった宮原照夫は、『少年マガジン』側が和解の道を探っている最中に手塚が一方的に『少年サンデー』に話をつけてしまったと語っている[2]

ちなみに、漫画版『ソラン』を担当したのは手塚の弟子であった宮腰義勝であり、宮腰は本件についてみなもと太郎から訊ねられた際に「……いやもう、何がなにやらサッパリわからんのですわ」と答えている[3]

事件の影響

W3事件、看板連載『8マン』の連載中止、ちばてつやの『ハリスの旋風』の長期休載といった事態が重なり、『少年マガジン』は『少年サンデー』の50万部に対し、30万部と大差をつけられた。その責任を取る形で、井岡秀次編集長は辞任している。打ち切り事件で手塚と『少年マガジン』の関係は一気に悪化し、『別冊少年マガジン』には1969年1970年に短編1作ずつを執筆したものの、手塚と『少年マガジン』本誌とは絶縁し、1974年に(講談社手塚治虫全集の発刊計画を機会として)両者が関係修復を行って読切『おけさのひょう六』や『三つ目がとおる』を載せるまでの9年間にわたり、手塚漫画は『週刊少年マガジン』本誌に登場することはなかった。また、当時においても最大手出版社であった講談社との確執は、その後長く手塚治虫及び虫プロにとって禍根を残した。

井岡が編集長を退いた後、『少年マガジン』編集長に内田勝が就任する。内田がさいとう・たかを水木しげるといった貸本劇画で活動していた作家を積極的に起用し、劇画路線を推進した裏には、W3事件における手塚への反発心があったと述べている。1966年開始の『巨人の星』で梶原一騎を看板作家に掲げて以後の『週刊少年マガジン』は、青年向け路線で劇画ブームを巻き起こし、一方で手塚は低迷期に突入していく。

豊田有恒の見解

産業スパイと周りから疑われ、虫プロダクションを辞めた人物の一人に、後にSF作家として活躍する豊田有恒がいる。豊田は当時、虫プロ社員として脚本を執筆し、『宇宙少年ソラン』を放映したTBSにも出入りしていた。この件について豊田は、自分は犯人ではなく、悪気のない他の作家のファン気質による行為が結果的に情報漏洩に繋がった、と自らの見解を述べている[4]。豊田によれば、情報漏洩自体は存在したことになる。

また豊田は、『宇宙少年ソラン』の脚本家としても活動していた。『ソラン』の脚本が『鉄腕アトム』のエピソードに似ていた時に、豊田は手塚から「あのソランのシナリオはなんですか! アトムのイルカ文明とまったく同じです!」と電話で怒鳴られた。豊田はそれに対し、「でも、あのときはイルカで今度は人魚ですから…」と弁解したという[5]

脚注

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1981年「手塚治虫漫画全集 W3」第3巻 P.223
  2. 手塚マンガ あの日あの時 第13回:もうひとつのW3(ワンダースリー)(虫ん坊 2010年11月号)
  3. みなもと太郎『手塚治虫WORLD少年マンガ編これがホントの最終回だ!』、ゴマブックス、2008年。ISBN 4777109488
  4. 『日本SFアニメ創世記』(TBSブリタニカ、2000年)
  5. 豊田有恒「あなたもSF作家になれるわけではない」1986年 徳間文庫

参考文献

  • 二階堂黎人 『僕らが愛した手塚治虫』、小学館、2006年、70 - 79頁。ISBN 4-09-387693-2

外部リンク