レジオンドヌール勲章
レジオンドヌール勲章 (テンプレート:Lang-fr-short ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジオン・ドヌール、『名誉軍団国家勲章』)は、執政政府期にナポレオン・ボナパルトによって制定されたフランスの栄典制度である。レジオン・ドヌール勲章とも表記されている。現在もフランスの最高勲章として存在する。
目次
概要
ordre(オルドル)とは騎士団のことであり、これを基にしたヨーロッパ独特の栄典制度を指す。叙勲はオルドルへの加入もしくは昇進を意味し、そのしるしとして騎士団の記章 (décoration, デコラシオン)の着用が許される。ただし、レジオン・ドヌール勲章の場合、外国人への授与は記章の贈呈のみで、オルドルたる「名誉軍団」(L'ordre de la Légion d'honneur)への加入は行なわない[1]。日本ではデコラシオンだけでなく、オルドルも「勲章」と訳される場合が多い。オルドルである「名誉軍団」は、軍団総長(グラン・メートル、grand maître)と軍団総裁(グラン・シャンセリエ、grand chancelier)をトップに戴き、フランスで最も名誉ある勲章を授与する任を負っている。ナポレオン・ボナパルトにより1802年5月19日に創設された。創設当初より、フランスへの「卓越した功績」のあった「軍人もしくは市民」に褒賞を与えているものである。
レジオンドヌールには等級があり、高位から『グランクロワ』(Grand-Croix, 大十字)、『グラントフィシエ』(Grand-Officier, 大将校)、『コマンドゥール』(Commandeur, 司令官)、『オフィシエ』(Officier, 将校)、『シュヴァリエ』(Chevalier, 騎士、勲爵士)の5階級に分かれる。さらにこれより上位に、「名誉軍団」総長たるフランス大統領には頸飾が与えられる。フランス人の場合はシュヴァリエから順番に階級が上がるが、オルドル外となる外国人の場合はその限りではなく、功績次第でいきなり上位章を受ける事もある。 テンプレート:-
歴史
その名前(ラテン語のLegio honoratorum conscripta「名誉ある徴募されたレギオン」に由来)、象徴(鷲)、編成(16のフランス式コホルス)が古代ローマに由来するレジオンドヌールは、アンシャン・レジームのオルドルとは異なり、士官だけではなく全ての民衆に開かれている。
これを市民の平等という原則への攻撃と見た者もいたが、第一執政ナポレオン・ボナパルトは国務院でこの制度をこう正当化していた――「古代・現代を問わず、勲章なしでやっていけた共和国があるというなら教えてもらいたい。諸君はこれを玩具だと言うかもしれないが、さて人間を動かすのはそうした玩具なのだ」。
フランス革命では実際にアンシャン・レジームの全ての勲章を廃止していた。憲法制定国民議会は軍事功労章(Décoration militaire)を創設したが、これもすぐに廃止された。国民公会下では、将軍たちは栄誉の武器(栄誉の銃、栄誉の剣、あるいは栄誉の太鼓など)を勇敢な行為に報いるために与えるのが慣習であった。
法案[2]は共和暦X(10)年フロレアル14日(1802年5月4日)から国務院を前にして議論が行われた。ボナパルト第一執政は自ら干渉して全力で栄典の必要性を主張する一方、厳密に軍事的なオルドルを創設することを拒絶し、アンシャン・レジームへの回帰であるとする非難を反駁した。14票対10票で法案は可決された。5月17日に法案を付託されたテンプレート:仮リンクではリュシアン・ボナパルトが報告者に指名されており、新しい貴族の復活と、平等という革命の原則の歪曲を恐れたジャコバン派の反対にもかかわらず、法案を56票対38票で承認した。最終的に、リュシアン・ボナパルト、テンプレート:仮リンク、オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン、テンプレート:仮リンクが法文を弁護し、1802年5月19日に立法院は166票対110票で可決した。第一執政ボナパルトは共和暦X年プレリアル9日(1802年5月29日)になるまで法に署名捺印しなかった[3]。
1804年7月14日、廃兵院の礼拝堂において、公式の豪華な儀式の中で功績ある将校たちへのレジオンドヌールの初の授与がフランス皇帝ナポレオン1世となったナポレオン・ボナパルトによって行われた。
共和暦XIII(13)年プリュヴィオーズ10日(1805年1月30日)には保有者が「グラン・デーグル」(大鷲)と呼ばれる大勲章が追加され、これは1814年7月19日の政令で「グラン・コルドン」(大綬)、最終的には1816年5月26日の政令で「グラン・クロワ」(大十字)と呼ばれるようになる。この日には、各名称が同様にコマンダンからコマンドゥールへ、レジオネールがシュヴァリエへと修正されたテンプレート:要出典。
軍人と市民を組み合わせた(実際の配分はおよそ2:1)ことでこのオルドルはあらゆる体制下を生き延び続け、今日では11万人以上の佩綬者(“はいじゅしゃ”。授けられて、着ける資格がある人。文語表現)を数えるに至っている。 テンプレート:-
授与
加入の規則
オルドル「名誉軍団」への加入(叙勲)と昇進は、軍団総長たるフランス共和国大統領の政令により3年ごとに割り当てられた定数の範囲内で行われる。この定数は大統領と各省庁に割り振られ、省庁は提案を軍団総裁へと送付する。オルドルへの加入ではシュヴァリエより上の階級に叙勲されることはないが、外国の個人に授ける場合はその限りではない。その場合には新加入者の儀礼的な地位に応じて決定される(1984年にモナコのアルベール2世は直接グラントフィシエの高位に就けられた)。創設時には、オルドルに加入した者には年200テンプレート:仮リンクの差押え不可な年金が付随していた。2009年には、この年金と総割当数は次の表の通りとなっている[4]――
階級名 | 佩綬者上限数 | 年金額[5] | 必要年数[6] |
---|---|---|---|
シュヴァリエ(騎士、5等) | 125,000 | 6.10€ | 勤続20年(公務員)、25年(民間) |
オフィシエ(将校、4等) | 10,000 | 9.15€ | 8年 |
コマンドゥール(司令官、3等) | 1,250 | 12.20€ | 5年 |
グラントフィシエ(大将校、2等) | 250 | 24.39€ | 3年 |
グランクロワ(大十字、1等) | 75 | 36.59€ | 3年 |
元大臣、テンプレート:訳語疑問点範囲、国民議会もしくは元老院の元議員(現職の大臣と議員は戦争で功績がある場合以外は除く)、高等司法官、外交官への授与はほぼ自動的に行われる。オリンピックでの金メダルの獲得は特別な昇進の対象となる。軍隊が割り当ての50%を占め、その他の代表的な職種としては警察官、消防士、テンプレート:訳語疑問点範囲、公務員、宗教の代表者などがある。
なお、当初は、レジオンドヌール佩綬者の子孫も3代まで世襲で勲章が与えられた。この条項は以後テンプレート:いつ空文化したが、未だに廃止されてはいない。
女性の増加
レジオンドヌール佩綬者の圧倒的大多数は男性である。
- 女性初のシュヴァリエ:1851年、ブリュロン未亡人マリー・アンジェリク・デュシュマン[7]
- 女性初のオフィシエ:1895年、ローザ・ボヌール[7]
- 女性初のコマンドゥール:1931年、アンナ・ド・ノアイユ
- 女性初のグラントフィシエ:1953年、シドニー=ガブリエル・コレット(作家)
- 女性初のグランクロワ:1998年、テンプレート:仮リンク[7]
2008年12月31日、テンプレート:仮リンクが8人目のグランクロワ佩綬者となった[8]。
都市への授与
レジオンドヌールは都市に授与されることもある。2009年までに、フランスの64の都市と他国の5都市に授与されている。他国の5都市は以下の通り――
都市 | 国 | 授与日 |
---|---|---|
リエージュ | ベルギー | 1914年8月7日 |
ベオグラード | セルビア | 1920年12月28日 |
ルクセンブルク | ルクセンブルク | 1957年6月18日 |
ボルゴグラード | ロシア | 1974年12月20日 |
アルジェ | アルジェリア | 2004年8月15日 |
全都市の一覧はフランス語版fr:Villes décorées de la Légion d'honneurを参照。
組織への授与
レジオンドヌール勲章はまた連隊、教育機関、共同体、企業(フランス国鉄など)、結社(テンプレート:仮リンク)などにも授与される。
高等教育機関としてはパリ国立高等鉱業学校[9]、テンプレート:仮リンク[10]、エコール・サントラル・パリ[11]、エコール・ポリテクニーク、テンプレート:仮リンク(現在のParisTech)、テンプレート:仮リンク[12]、フランス国立古文書学校、ナンシー大学(現・テンプレート:仮リンク)など、中等教育機関としてはブール=ガン=ブレスのテンプレート:仮リンク エクス=アン=プロヴァンスの軍事リセ[13]、ラ・フレッシュのテンプレート:仮リンクなどが受章している。
授けられた軍部隊の隊員は、制服に赤いフラジェール(Fourragère)と呼ばれる飾緒状の記章を着用することが出来る。パリ警視庁は1944年8月19日にシテ島で警官の一団が起こした蜂起のためにシャルル・ド・ゴール将軍によって1944年10月12日にレジオンドヌールを叙勲された。パリ警視庁の警察官が礼装の左肩に赤い飾緒を着けるのはこのためである。
- Fourragères 1er RCP.jpg
フラジェール(レジオンドヌールは赤)を着用した第1猟兵落下傘連隊の隊員。
外国人への授与
レジオンドヌールはフランス人だけでなく、元首、首相、政府の構成員、外交官、実業家、フランスに来訪した芸術家、その他フランスの利益に貢献した人物にも(定数外で)授与される。例えば、1999年2月19日には共和国大統領ジャック・シラクが第一次世界大戦でフランスのために戦ったアメリカ合衆国元軍人たちに徽章を贈っている。2006年にロシアのウラジーミル・プーチン大統領にグランクロワが叙勲された際には論争が巻き起こった。
2005年までに約1500人の外国籍の叙勲者があり、その内の約1割が日本人である[6]。
日本人への授与
グラン・トフィシエ以上は通常、民間人が授与されることはなく、最高位のグランクロワは日本人では皇族や伊藤博文(1898年)などが受章している。グラン・トフィシエ受章者は、元総理大臣の中曽根康弘、元東京都知事の鈴木俊一(東京とパリは姉妹都市)、トヨタ自動車名誉会長で日本経済団体連合会名誉会長の豊田章一郎などが受章している。
民間人ではコマンドゥールまでが「日仏間の経済、文化交流の発展への功労者等に与えられる」[6]。医学領域では、第一次世界大戦中の赤十字救護班病院で活躍した東京帝国大学助教授の塩田広重(1916年)、経済領域では三菱ふそう自動車会長の渋谷米太郎(1956年)やソニー創業者の盛田昭夫(コマンドゥール、1998年[14])、トヨタ自動車社長の豊田章男(オフィシエ、2013年)など、文化領域では日本画家の川合玉堂(1931年[15])、小説家の大江健三郎(コマンドゥール、2002年)、建築家の安藤忠雄(コマンドゥール、2013年)などが受章している。
勲章の詳細
徽章は白の琺瑯を施された5つの2重の輻射を持つ星型で、10の尖端部はボタンで留められている。星とボタンはシュヴァリエのものは銀、オフィシエのものは金めっきした銀で作られている。輻射部分は階級に応じて銀または金めっきの冠で繋がれており、冠は緑色の琺瑯が施され、右は栢、左は月桂樹の葉からなっており、両足の部分は交錯して結び目で縛られている。星の中央には共和国を象徴するケレース(2度の帝政ではナポレオン1世、王政復古と7月王政ではアンリ4世、第二共和政ではボナパルトと執政)の横顔が描かれた金のメダイヨンが飾られており、それをRÉPUBLIQUE FRANÇAISE(フランス共和国)と書かれた青い円が囲んでいる。星は葉の冠によって吊り下げられており(2度の帝政での皇帝の冠でもあり王政復古と7月王政での国王の冠でもある)、これも階級に応じ銀製または金めっきで、緑の琺瑯が施され、右は月桂樹の葉、左は栢(星の部分とは左右逆)からなっている。裏面には2つの三色旗を描いた金のメダイヨンがあり、刻銘にはHonneur et Patrie(「名誉と祖国」。レジオンドヌール創設時より変わらない)という標語と創設の日付29 floréal An X(フランス革命暦X年花月29日)が刻まれている。
徽章は赤いリボンで吊り下げられている(テンプレート:仮リンクから引き継いだものではないかと考える者もある[6])。オフィシエの場合には薔薇飾りが添えられている。コマンドゥールの、綬に吊り下げる金めっきの徽章の大きさは、シュヴァリエとオフィシエのものよりも半分ほど大きい。コマンドゥールの綬は常に単独で首の周りに着けられる(これは他のフランスの勲章のコマンドゥールには当て嵌まらない。テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンクなどは一緒に着用することができる)。グラントフィシエは、オフィシエの徽章に加え、プレート(俗にcrachat〔痰〕と呼ばれる)を胸の右側に着用する。グランクロワはこれと同じだが金めっきのプレートを、胸の左側に着用する。グランクロワの金めっきの徽章はシュヴァリエのものの倍近くの大きさがあり、右肩からたすきがけにした大きな赤い綬に吊り下げて着用される。
私服では、シュヴァリエはボタン穴に赤いリボンの略綬を、オフィシエは赤い薔薇飾りの略綬を、コマンドゥールは銀の1つ結びが付いた赤い薔薇飾りの略綬を、グラントフィシエは半分銀、半分金の1つ結びが付いた赤い薔薇飾りの略綬を、グランクロワは金の1つ結びが付いた赤い薔薇飾りの略綬をそれぞれ着ける。この1つ結びは俗にcanapé(カナッペ)と呼ばれている。
レジオンドヌールの徽章は(芸術文化勲章などと並んで)伝統的にパリ・サンジェルマンデプレ広場のアルテュス=ベルトラン社で製作されている。叙勲の際、徽章は実際には贈与されるのではなく、自費で予めテンプレート:仮リンクにて購入しておいたものを着けてもらうという形を取る。徽章は誰でも購入できるが、叙勲されていない者が着用すれば処罰される[16]。販売価格は2010年現在でシュヴァリエのものが168.50ユーロ、グランクロワのものが693.50ユーロである[17]。
- Legion of Honor - Knight.JPG
シュヴァリエの徽章。
- Offizierskreuz.jpg
オフィシエの徽章。金めっきされている。
軍服に着用する綬 | ||||
---|---|---|---|---|
シュヴァリエ | オフィシエ | コマンドゥール | グラントフィシエ | グランクロワ |
</center> テンプレート:-
オルドル――組織としてのレジオンドヌール
レジオンドヌールのオルドルである「名誉軍団」(L'ordre de la Légion d'honneur)は、共和暦8年憲法87条に基づき[18]、1802年5月19日の法令により設立された。フランス国籍のレジオンドヌール叙勲者全員により構成された一つの共同体であり、名前、印璽、社会的地位[19]、共有財産、公法上の法人格を備えている。
標語は「名誉と祖国」(Honneur et Patrie)である。
軍団総長(テンプレート:仮リンク)は共和国大統領である。大統領の権限移譲式の日に、テンプレート:仮リンクが軍団総裁(テンプレート:仮リンク)から大統領に贈られる。頸飾は公式写真として示された後、レジオンドヌール博物館に寄託される。
軍団総裁は共和国大統領によりグランクロワの中から選ばれる。1969年以降、6年の任期で任命されている。ベルナール・ジェルマン・ド・ラセペードより後は、軍団総裁の大部分は軍人であった。軍団総裁の職務は多岐に亘り、事実上の賞勲局長として、フランスにおける勲章に関する全ての問題の責任を持つ。特に、外国の勲章を着用する認可を与えるのも軍団総裁である。また、1963年12月の国家功労勲章制定に伴い、同勲章に関する最高責任者でもある。
軍団総裁は、市民・軍人双方のコマンドゥール以上のさまざまなメンバーから構成される評議会により補佐される。
「軍団本部」たるレジオンドヌール勲位局はパリ7区のサルム館(L’hôtel de Salm)にあり、今日では「レジオンドヌール宮殿」とも呼ばれている。宮殿にはレジオンドヌール博物館も収容されている。
勲章の拒否
- 以下の面々が叙勲を拒否している
- 劇作家のテンプレート:仮リンク(皇帝とその一族に宣誓するのを拒否した)
- ラファイエット
- 詩人テンプレート:仮リンク(「鎖よりはぼろを」と言った)
- テンプレート:仮リンク
- ジェラール・ド・ネルヴァル
- ナダール
- ジョルジュ・サンド(叙勲を打診した大臣にこう返信した――「そんなことよしてくださいな、酒保のおばあちゃんみたいになりたくないの!」)
- オノレ・ドーミエ(「政府には私をそっとしておいて頂きたい!」)
- テンプレート:仮リンク
- ギュスターヴ・クールベ
- ギ・ド・モーパッサン
- モーリス・ラヴェル(即座に拒否し、またその理由も答えなかった)
- ピエールとマリ・キュリー(打診を受けピエールは素っ気なく言い返した――「必要性を感じません」)
- クロード・モネ
- テンプレート:仮リンク(4度拒否している)
- テンプレート:仮リンク
- ジャン=ポール・サルトル
- シモーヌ・ド・ボーヴォワール
- アルベール・カミュ
- アントワーヌ・ピネー(「1914-1918年の戦争[20]の戦火の中で得た軍事勲章に勝るものはない」と考えていた)
- ブリジット・バルドー(1985年に叙勲されたが、受け取りに行くことを拒否した)
- カトリーヌ・ドヌーヴ、クラウディア・カルディナーレ
- 叙勲は受けるが着用を拒むことを選ぶ者もあり、例えばアカデミー・フランセーズ会員のテンプレート:仮リンクがそうで、こう宣言した――「栄誉なんてものは軽蔑しているが、軽蔑しているからといって我慢できないわけでもない。」[21]。
- ジャン・ヴィクトル・マリー・モローはレジオンドヌールの創設を嘲笑していた。誰かがモローに、武勲に秀でたものだけでなく、功績や知識に秀でたものにもレジオンドヌールが授与されると言うとモローはこう叫んだ――「へえ! じゃあ俺はうちの料理人のためにコマンドゥールの勲章を申請するとするよ、あいつは料理の技術に大変優れているからな。」(テンプレート:訳語疑問点範囲)
- 『カナール・アンシェネ』の寄稿家はずっと以前から勲章を拒否することを決まりにしていてレジオンドヌールはその筆頭であった(ジャーナリストのテンプレート:仮リンクは1993年にレジオンドヌールを受け取ったためにカナール誌から追放された)。
- エクトル・ベルリオーズに対し、財政難の政府は『死者のための大ミサ曲』の代金として約束の3000フランの代わりにレジオンドヌールを贈ろうとしたが、ベルリオーズは「おたくの勲章なんか知ったことか。俺の金を寄越せ!」と叫んだ。
- ジャック・プレヴェールや、勲章の話を歌にしたジョルジュ・ブラッサンスや、「くだらないリボン、恥ずかしくて真っ赤」と馬鹿にしたテンプレート:仮リンクのようなアナーキストの詩人たちも拒絶した。
- ミス・フランスの委員長テンプレート:仮リンクにサヴォワ県の上院議員がレジオンドヌールを打診したが他とは逆の理由で断った――「そんな誰にでも渡すのでは勲章の価値がなくなってしまいますよ……チョコレートのメダルじゃないんですから。」
- エリック・サティはモーリス・ラヴェルがレジオンドヌールを拒絶したことについてこう書いた――「ラヴェルはレジオンドヌールを拒否したかもしれないが、ラヴェルの音楽はレジオンドヌールをすっかり受け入れてるよ。」[22]
- 同様に、ルイ・アラゴンがレジオンドヌールを拒否した時に、ジャック・プレヴェールは容赦ないふりをしてアラゴンに言った――「あれを拒否したのは大変結構だが、それだけじゃなくてあれに値しないようじゃなきゃいけなかったな。」
- アルスの主任司祭ジャン=マリ・ヴィアンネは1855年に、自分でも知らぬうちにシュヴァリエを叙勲されていた――テンプレート:仮リンクの郡長とアン県の知事が申請していたのである。勲章は貧者のためのお金をもたらすことはないとして司祭はこれを断った。拒否にもかかわらず、レジオンドヌール勲位局は勲章を料金を請求せずに送付した。結局、司祭は決して勲章を着用することはなかったが、勲章は棺の中に入れられた[23]。
- レジスタンスの彫刻家テンプレート:仮リンクは1914-1918年にシュヴァリエに叙勲されたが、1947年にはオフィシエへの昇進を断った。芸術家としてであっても、1940年のレジスタンスの先駆者としてであっても、受け取ると勲章はあらゆる意味を失ってしまうと判断したのである。
- 1949年に、教育省がマルセル・エイメに叙勲を打診した。この時に作家がした回答は有名となっている。その結びはこうである――「かくも望ましいご厚意をお断りしなければならなくなることは大変な苦痛ですので、どうかそのレジオンドヌールというものには、極楽浄土の喜びのごとく、列車の座席にどっかりと腰を下ろして頂きたく存じます。」テンプレート:訳語疑問点(『塹壕砲』1950年)
- 1997年12月末に、作家テンプレート:仮リンクは「拒否した仲間の方に残りたい」としてレジオンドヌールの叙勲を断った。伯父のシャルル・クラヴェルがレジオンドヌールを受け取ったのは、過酷な戦争で祖国のために夥しい血を流したからだとも付け加えた。「もし私が伯父と同じ勲章を着けているのを見たら、伯父は墓の中で寝返りを打つでしょう。」テンプレート:要出典範囲フィリップ・セガンも同様であった。
- テンプレート:仮リンクはこう宣言してレジオンドヌールを拒否した――「何が名誉あることで何がそうでないかは国が決めることじゃない。」[24]
- トルコ・高等教育機構(l’Organisation d’Éducation supérieure)会長でテンプレート:仮リンクの元学長のテンプレート:仮リンク教授は、2004年9月17日に受章していたが、アルメニア人虐殺の否定を罰することを目的とした法案が国民議会で可決されたことに抗議するため2006年10月16日に返上した。
- 2009年1月2日、テンプレート:仮リンクの娘で数学者のテンプレート:仮リンクは、ミシェルの母が、夫(モーリス)のアルジェリアでの失踪の謎を解明することとフランスがその責任を負うことを求めニコラ・サルコジに送った公開質問状に回答が得られなかったことを理由にレジオンドヌールのシュヴァリエを拒絶した[25]。
- 2009年1月5日、ルモンド政治部の記者フランソワーズ・フレソとテンプレート:仮リンク記者のマリー=イヴ・マルインは叙勲の拒否を宣言した――「私の職業上の行程の中の何物も、このような栄典を正当化しない。さらに、職務を束縛なく遂行するためには、政治記者は栄典からは離れていなければならない。これらの理由から、私にはこの勲章を拒否する義務がある。」[26][27]
勲章の剥奪
名誉や威信が損われる場合の最終的な制裁として、当事者を召喚して弁護の機会を与えることを含む懲戒手続を経てオルドルからの除名が行われることがある。この除名は勲章の剥奪も意味し、犯罪により1年以上の禁固刑の判決を受けた場合やテンプレート:仮リンクを喪失した場合には自動的に除名となる[28]。モーリス・パポンがこれに該当し、勲章を剥奪されたのを知りつつもなお、この勲章と共に埋葬されることに執着した[29]。
ジャン=クロード・ラブルデットが1994年にレバノンでの武器密売の有罪判決のため、2011年にはファッションデザイナーのジョン・ガリアーノが再三の人種差別発言で罰金刑を受けた事により、除名された。
逸話
1981年に、レジオンドヌール勲位局総裁を1975年より務めていた陸軍大将のテンプレート:仮リンクは、これまでの新大統領全てにそうしてきた伝統通りにフランソワ・ミッテランにグラン・メートルの頸飾を渡さずに済むように勲位局を荒っぽく辞任した。ミッテランはかつてシャルル・ド・ゴール(ボワシュー大将はド・ゴールの娘婿)を「独裁者」扱いしていたからであった[30][31]。
小説などでも高名な勲章としてレジオンドヌール勲章がしばしば登場する。ギュスターヴ・フローベールの小説『ボヴァリー夫人』は、典型的な俗物として描かれた村の薬剤師オメーが夫人の死後に「『名誉の十字』を贈られた」という一文で終わっている[32]。コナン・ドイルの探偵小説『金縁の鼻眼鏡』では探偵のシャーロック・ホームズがフランス大統領から感謝状と共にレジオンドヌール勲章を贈られている[33]。またセシル・スコット・フォレスターの海洋小説『ホーンブロワー』シリーズの主人公ホレイショ・ホーンブロワーもナポレオン3世からシュヴァリエを叙勲されている。
引用
- 「フランスでは、信念の喪章は赤色をしていて、ボタン穴に着用する。」ジュール・ルナール『日誌』
- 「レジオンドヌールをくれるというなら、俺はパンツ一枚で受け取りに行くよ、どこに着けたらいいか困るようにね。」テンプレート:仮リンク
- 「レジオンドヌール勲章、それは問題ないし、拒否されないし、着用もされない。」フランソワ・モーリアック
- 「レジオンドヌールは伝染病みたいなものだ――既にそれを持つものだけが授与することができる。」テンプレート:仮リンク
- 「政府にレジオンドヌールを要求するのは、政府に対する礼儀というものです。」テンプレート:仮リンク
- 「リヨンのレジオンドヌールだって?そりゃサラミだ![34]」ボリス・ヴィアン
- 「この玩具で人を操るのだよ。」ナポレオン・ボナパルト
- 「レジオンドヌールは痔みたいなもんだ、今じゃどのケツ(奴)にもある。」ジャン・ヤンヌ
- 「馬鹿にしながらも欲しくて仕方がない。手に入れると、別に頼んだわけじゃないといつも言う。」ギュスターヴ・フローベール、1866年に受章して。
脚注
参考文献
- Napoléon et la Légion d'honneur, La Phalère (revue européenne d'histoire des ordres et décorations), no1, 2000, 341 p.
- Le Mérite et la République. Essai sur la société des émules, Olivier Ihl - Gallimard, 2007
関連項目
- Category:レジオンドヌール勲章受章者 - 受章者の記事一覧。
- 勲章#フランスの勲章 - レジオンドヌール以外にも勲章制度がある。
- 芸術文化勲章 - 芸術分野に秀でた人物に授与される。
- テンプレート:仮リンク
- テンプレート:仮リンク - 受章者の娘が通う学校
外部リンク
- 在日フランス大使館「レジオン・ドヌール勲章」 テンプレート:Ja icon
- レジオンドヌール勲位局 テンプレート:Fr icon
- レオノール・データベース、レジオンドヌール受章者(1977年までに没)の調査目録 テンプレート:Fr icon - フランス文化省のサイト
- レジオンドヌールと軍事勲章に関する法律 テンプレート:Fr icon - テンプレート:仮リンク
- レジオンドヌールのメンバーの相互扶助協会 テンプレート:Fr icon
- レジオンドヌールの歴史 テンプレート:Fr icon
- パリ造幣局 テンプレート:Fr icon - 贈られるのは称号と着用資格だけで、受章者は自費で造幣局から徽章を購入しなければならない
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- ↑ 法案準備の任に当たった委員会の議長はジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスであった。
- ↑ Source : www.crdp-reims.fr
- ↑ « Légion d’honneur », sur le site france-phaleristique.com, consulté le 4 décembre 2009.
- ↑ 現在ではグランクロワでも年5000円程度なので形式的なものである。
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 テンプレート:Cite web
- ↑ 7.0 7.1 7.2 テンプレート:Cite web
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- ↑ Décoration remise par le président de la République Albert Lebrun le 29 Juin 1933.
- ↑ Décoration remise par le président de la République Albert Lebrun le 22 Octobre 1933.
- ↑ Décoration remise par le président de la République Paul Doumergue le 26 mai 1929 à l’occasion du centenaire de l’École Centrale des Arts et Manufactures, couramment appelée École centrale Paris.
- ↑ Décoration remise par Paul Ramadier le 5 décembre 1937.
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- ↑ Les 80 décrets, arrêtés pris depuis 1802 ont été fondus dans le Décret no62-1472 du 28 novembre 1962 pour former le Code de la Légion d'honneur et de la médaille militaire.
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- ↑ Revue-republicaine.fr | Alain de Boissieu, au service de la France et du Général
- ↑ ウィキソースの『ボヴァリー夫人』原文
- ↑ ウィキソースの『金縁の鼻眼鏡』原文
- ↑ rosetteはレジオンドヌールの略綬、rosette de Lyonはリヨン風のサラミを指す。駄洒落。リヨンは1949年2月28日にレジオンドヌールを受章している。