ジョン・ガリアーノ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・ガリアーノ(John Galliano、ホアン・カルロス・アントニオ・ガリアーノ・ギレン、Juan Carlos Antonio Galliano-Guillén CBE, 1960年11月28日 - )は、イギリスのファッションデザイナー。
略歴
- 1960年 - ジブラルタルで生まれる。父は、ジブラルタル人、母はスペイン人。その後6歳でロンドンに移住。
- 1984年 - セントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインのモード科を首席で卒業。モード科には、テキスタイル科から移籍した。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り好評を呼んだ事で、ブラウンズと5年間の契約を結ぶ。
- 1985年 - ロンドンコレクションでデビュー。 当初はデリケートなバイアスカット(布を織り目を斜めに使うカッティング)のドレスと、オーダーメイド・スーツで高い評価を得る。
- 1989年 - パリ・オートクチュール協会の招待でA/W(秋・冬)コレクションを発表。
- 1991年 - パリ・コレクションの正式メンバーに加入。
- 1995年 - ユベール・ド・ジバンシィが1995-96A/Wオートクチュールコレクションを最後に自身が立ち上げたブランドジバンシィを引退する為、後任としてガリアーノがデザイナーに抜擢される。但し彼が手がけたコレクションは1996S/S(春・夏)と1996-97A/Wの僅か2回のみで、その後はアレキサンダー・マックイーンがジバンシィのデザイナーに就任した。この年、3度目の「ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。
- 1996年 - ジャンフランコ・フェレの後を継いで、クリスチャン・ディオールのデザイナーに就任。
- 1997年 - オートクチュール・コレクションにデビュー。また織部賞を受賞。
- 2007年 - セカンドラインである「Galliano」を発表。
- 2009年 - レジオンドヌール勲章に叙される。
- 2011年 - 2月24日、後述の人種差別発言の嫌疑で警察当局に拘束され、ディオールから停職処分を受ける。3月1日にディオールから、その後自身のブランドである「John Galliano」のデザイナーも解任される。
- 2011年 - 6月24日、パリメンズコレクションにて2012年春夏メンズコレクションが発表され、「John Galliano」の新ディレクターに、長年に渡りガリアーノの右腕として共にコレクションを作り上げてきたビル・ゲイテンが就任したことが明らかになった。
刑事訴追
2011年2月、パリのカフェで「クソったれのアジア人め、殺すぞ("F------ Asian bastard, I will kill you")」「汚ねぇユダヤ人め、死んじまえ("Dirty Jewish face, you should be dead")」など人種差別発言をした容疑で警察に一時拘束された[1]。ガリアーノは当時酒に酔っていたという。2月28日付けザ・サンで、「俺はヒトラーが好きだ(中略)お前らみたいなのは死ぬべきなんだ。お前の母親も先祖も、クソども全員、ガス室送りになるべきだ("I love Hitler...People like you would be dead. Your mothers, your forefathers, would all be f------ gassed.)」とイタリア人の女性グループに暴言を浴びせているビデオが公開された[2]。9月8日、パリ軽罪裁判所より人種差別的侮辱罪で執行猶予付き罰金6000ユーロ(約65万円)の有罪判決、またレジオン・ドヌール勲章剥奪[3]。