24年組

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Sidebar with collapsible lists 24年組(にじゅうよねんぐみ)は、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代少女漫画の革新を担った日本女性漫画家達の一群を指す。[1]花の24年組」とも呼ばれる。年齢や作風において彼女らの後輩に当たる女性漫画家達は「ポスト24年組」と呼ばれている。

メンバー

24年組
青池保子萩尾望都竹宮惠子大島弓子木原敏江山岸凉子樹村みのりささやななえこ山田ミネコ、増山法恵
ポスト24年組
水樹和佳、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子佐藤史生花郁悠紀子

概説

1970年代初頭に、新しい感覚を持った女性漫画家達が次々と現れ、SFやファンタジー的要素や、同性愛の概念を導入したり、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、当時の少女漫画界の常識を覆していった。主人公が少年である作品も生まれ、竹宮惠子、萩尾望都は1970年代後半に、山田ミネコは1980年代に少年誌にも連載を行った[2]。その活動がとくに注目されていた時期は、1970年代中頃から1980年代前半である。

彼女らの生年がおよそ昭和24年前後であり、また「大泉サロン」での交流など相互に関係が深い事から、「24年組」の名で呼ばれるようになった。24年組の多くは長期に渡って活動を続けており、萩尾や山岸凉子は2000年代に入ってからも漫画賞を受賞している。

成り立ち

竹宮惠子と萩尾望都を見出し、世に送り出した人物は編集者の山本順也であり、竹宮と萩尾が中心となって共同生活を送り、24年組が誕生するきっかけとなった場所が大泉サロンである。

1962年の『少女サンデー』休刊以来、小学館講談社の『なかよし』や集英社の『りぼん』・『マーガレット』等に大きく遅れを取っていた。そこで新雑誌創刊の任を負った山本は1968年、『小学一年生』等の学年誌に掲載されていた少女向けの漫画を集めて、月刊誌『少女コミック』を創刊した。同誌は1970年に週刊化されたが、当時は多くの漫画家が出版社と専属契約をしており、山本は作家の確保に苦労していた。

その頃、手塚治虫より『COM』に作品を投稿していた竹宮を紹介される。当時の竹宮は親の希望により郷里の徳島県の大学に通い、学生運動に参加し、漫画を断っている時期もあった。そんな竹宮を山本は徳島まで赴き、「新しい事を始めたい」と説得した。竹宮は上京を決心し、友人であった萩尾と練馬区のアパートで共同生活を始める。そこに自然と漫画家を志す同年代の女性が集い、漫画について語り合ったり互いにアシスタントをしたりする場となった。これが後の「大泉サロン」である[3]

その後、『なかよし』で描きたいSFを採用してもらえない時期にあった萩尾が、竹宮に伴われ原稿を山本の元へ持ち込んだ。山本は萩尾の漫画にも新しい衝撃を感じ、他社と専属契約を結んでいなかった事もあり『少女コミック』で自由に描かせた。また、同年代の大島弓子も執筆陣に加えた。

萩尾や竹宮、大島など(詳しくはメンバーの項参照)同年代の少女漫画家の自由な作風は、小中学生のみならず高校生や大学生、男性にまで受け入れられ、文芸評論家も高く評価した。

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

  • ただし、昭和24年(1949年)頃の生まれであってもあしべゆうほ一条ゆかり市川ジュンなど24年組には属さない女性漫画家もいる。
  • 例として萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(原作:光瀬龍)『週刊少年チャンピオン』(秋田書店1977年1978年、竹宮恵子『地球へ…』『マンガ少年』(朝日ソノラマ1977年1980年 、山田ミネコ『最終戦争シリーズ』『リュウ 』(徳間書店1981年1987年などがある。
  • 24年組全員が大泉サロンに関わっていたわけではない。