鹿島神流

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鹿島神流(かしましんりゅう)とは、日本の武術の流派。

剣術柔術を中心に、抜刀術薙刀術棒術杖術槍術手裏剣術を含む武術である。昭和時代に「今武蔵」と謳われ生涯不敗であった國井善弥が有名である。

概要

別名「鹿島流」、「神流」など。 鹿島神宮に古くから伝わったとされる「鹿島の太刀」を元としている。これは鹿島神宮祭神の武甕槌大神が悪神を鎮める際に使用した技がその始まりであるとして、抜刀術の「祓太刀」がその名残だという。また、建御名方神との力くらべの際に武甕槌大神が使った技が柔術の「霊気之法」の始まりとしている。流祖は松本備前守。戦国時代、鹿島氏家老であった松本はその座を辞し鹿島大神に祈願すると剣術の極意を記した「天狗書」を賜った。鹿島神流師範家に代々伝わる「天狗書」は松本の直筆であるとし、師範家の証と位置づけている。松本はまた、奥義「一ノ太刀」の発案者であるとされている。 上記の祈願の際には國井源八郎と交流の結果、國井を後見人として流派を開き以降國井家が宗家を、上泉伊勢守を始めとする松本の弟子たちが代々師範家を受け継いだ。師範家は幕府からの弾圧を避けるため流派名を変え新陰流または神影流などと名乗ったという。第十二代宗家國井大善が直心影流の小野清右門平より免状をもらった時点で宗家と師範家が統合としこれは第十八代國井善弥まで続いた。現在、宗家は第二十一代國井正勝が保持、師範家の正統継承者は第十九代關文威である。

防御と攻撃を常に同時に行う、剣を振りかぶらず一挙動に打つ、すべての技に裏技が存在するなど、武術の性質を表す「五ヶ之法定」と呼ばれる原則を元に基本的な技が構成され、高等技は単にこれを発展させたものに過ぎず、さらに柔術を始め他のあらゆる武器術は剣術とほぼ同じように行うことが出来るとされる。そのため槍術は馬庭念流などと同じく左手を石突き側、右手を槍先側に持って構える。

歴史に関する考察

流派側の主張に従えば、徳川家康の命により鹿島の伝書が焼き捨てられたため、鹿島神流に関する伝書がほとんど現存しないとしている。その真偽はどうであれ分析可能な資料がないため第18代の國井善弥以前の歴史を疑問視する見方もある。以下のような指摘がある。

  1. 國井善弥は若い頃に馬庭道場の内弟子となり馬庭念流を修行しており、鹿島神流剣術の構えや技に馬庭念流に似たものが多い。事実、流派の公式ウェブページでは國井善弥自ら馬庭念流との関係を認めたとする記述がある。
  2. 國井家に伝わる伝承では、第12代宗家の國井大善は直心影流剣術を修行し、直心影流剣術の「法定之形」をもとに鹿島神流剣術の「基本太刀」を編み出したと伝えられている。(これについて、流派の公式ホームページには「法定之形」から元来の形に戻して「基本太刀」とした、としている。)
  3. 2.を裏付けるように、國井大善の前代にあたる鹿島神流の第11代師範家までの系譜が直心影流剣術と一致する。(これについて國井善弥は、第2代師範家の上泉伊勢守や第4代師範家の小笠原長治や第7代師範家の山田一風斎らが鹿島神流を学んだことを秘して、新陰流や真新影流や直心影流を開いたためと主張している)
  4. 國井善弥は栖原邦泰にも師事して馬庭念流を修行しているが、その際、栖原が開いた妙道流柔術も学んだ。そのためか鹿島神流柔術の技は妙道流柔術に似たものが多いという意見がある。(栖原より柔術も学んでいることも事実であるが、國井善弥が馬庭念流の修行を開始する以前に、既に柳生新陰流の佐々木正之進より柔術を伝えられていたと本人が主張している。)
  5. 鹿島神流の柔術は古い流派に多い、捕手術小具足、腰廻にあたる形が少ないなど近代的な柔術流派の特徴がある。(ただし、武術において技の多寡と歴史の古さには明確な関係は認められない上、多い少ないの判断は恣意的とならざるを得ない。捕手術・小具足・腰廻を柔術の別称と解した場合は別として(これらの意味内容は流派によってまちまち)、鹿島神流には甲冑組み討ちを伝える「具足捕」や様々な場所・シチュエーション・武器を想定した「捕手返」(捕縛術含む)、鍔競り合いから逆を捕る「鍔競倒討」の形があり、懐剣術と鉄扇術も存在するという。)
  6. "鹿島神流柔術の基本である「霊気の法」は大東流合気柔術合気道の「合気上げ」に非常に似ており、「合気上げ」について『鹿島神流では「霊気の法」と呼ばれている』[1]と記す文献もある。
  7. "昭和13年6月26日発行の週刊朝日の記事である”古武道の真髄を語る”にて、念流の増尾寅次郎と国井道之(善弥)の念流の演武写真が掲載されている。[2]

これらの指摘を元に、現在の鹿島神流の内容は國井善弥が修行してきた馬庭念流剣術と妙道流柔術を核に、國井善弥がさらに技法を加えて体系付けたとする意見がある。

雑誌『極意』での國井家へのインタビュー記事において、武田惣角や植芝盛平も鹿島神流を習った、との同席した國井善弥の高弟の発言が記載されている[3]が、このような主張も鹿島神流関係者以外からは聞かれない。なお武術研究家の高橋賢などによると、大東流合気柔術は明治以降に成立した比較的新しい武術とされる。

関連資料

  • 鹿島神傳武術

著 關 文威(鹿島神流師範家十九代,筑波大学名誉教授) 頁数・判型 136頁・A5判上製 ISBN 978-4-7644-1577-5

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 長野峻也『あなたの知らない武術のヒミツ』 アスペクト 2006年(平成18年)
  • 週刊朝日『古武道の真髄を語る』 朝日新聞出版 1938年(昭和13年)
  • *『極意』1997年秋号 福昌堂