青山忠裕

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青山 忠裕(あおやま ただひろ(ただやす))は、江戸時代中期から後期の大名老中丹波篠山藩第4代藩主。青山家宗家10代。

生涯

第2代藩主青山忠高の三男。天明5年(1785年)、兄で第3代藩主の忠講が嗣子なく21歳で没したため、家督を継ぐ。忠裕は、寺社奉行若年寄大坂城代京都所司代と、およそ幕閣の登竜門とされるポストを残らず勤め、文化元年(1804年)に老中に起用されて30年以上勤めるなど、文化文政期の幕閣の中心人物として活躍した。老中在任中、相馬大作事件の裁判や、桑名藩忍藩白河藩三方国替えなどを担当した記録がある。

文政元年(1818年)、藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせる。また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季になど摂津方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた。

天保6年(1835年)に隠居し、家督を四男の忠良に譲る。翌天保7年(1836年)没した。

逸話

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  • 毎年春と秋に本所回向院で将軍臨席で大相撲があった。篠山藩の力士は毎年、真っ先に負け続きで忠裕はたいそう不機嫌であった。文政3年(1820年)春場所のある日、王地山平左衛門、波賀野山源之丞、飛の山三四郎、黒田山兵衛、曽地山左近、小田中清五郎、須知山道観、頼尊又史郎という八名の力士が篠山から出て来て、相撲を取らせてくださいというので忠裕が出場させたところ、全員が勝った。喜んだ忠裕が褒美を取らせようとしたところ全員どこにもおらず、後で調べたが篠山にはそんな名前の力士はいない、ただ篠山領のお稲荷さんがまつられている地名ということがわかり、それぞれの稲荷神社へ感謝のためにのぼり絵馬を奉納したという。
  • 松平定信徳川治済大御所尊号をめぐって家斉と対立していたとき、忠裕は家斉から諮問を受けた。忠裕は「上様は誠に孝心厚いことですが、国家にそのような先例は無く、故人ならまだしもご健在である治済公に追尊することは不可能なことで、越中守(定信)殿の申されることは最もです」と答えて強く諫めたという(続徳川実紀)。

経歴

※明治4年までの日付は旧暦。

関連項目

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