関行男
テンプレート:基礎情報 軍人 関 行男(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、日本の海軍軍人、戦闘機パイロット。
太平洋戦争において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」を隊長として指揮し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈した。死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。
目次
経歴
誕生~海軍兵学校入学まで
1921年8月29日に、愛媛県西条市栄町で古物商を営む家に生まれる[1]。現西条市立大町小学校、旧制西条中学校を経て1938年12月に海軍兵学校(70期)へ進学した。同期には菅野直大尉のほか、高井太郎(イースタン・カーライナー社長)、後宮俊夫(日本基督教団総会議長)がいる。関家では、行男が海軍兵学校へ進学した際に繁子という母方の親族に当たる女性を養女としており[2][3][4]、行男の父親は海軍兵学校を卒業した1941年11月15日より前に亡くなっている[5]。父親の没後、母・サカエは経営していた古物商を廃業し、草餅の行商人へ転じた[1]。父勝太郎は、行男が高等師範学校に進んで教師になり平穏に暮らすことを望んでいたが、行男は一高がだめならば、同じ程度の難関であった海軍兵学校に行くつもりであった。父は「今の戦争が長引けばそれだけ命を危険にさらすことになるぞ。」と諭したが、 「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に事なかれ主義のなまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ。」と反論した。そう言い合う二人を見て母サカエはおろおろするばかりであった。 行男は勉強が出来、文才があり、数学も賞を貰ったりしていました。またテニスの主将として全国大会にも出場したりと、将来が有望であった。父親は「あいつは、わしらには出来過ぎとる。」と、サカエにぼやいた。昭和13年12月、行男は兵学校に入学する。
兵学校時代~フィリピン進出
海軍兵学校に在籍する者の中で、関は一、二を争うほどの高身長でとても目立っており、新入生恒例の姓名申告では上級生に唯一褒められたという[6]。その一方で、養妹である繁子の自慢話を同期生に話したり、繁子と他の生徒の許婚を比較して「繁子の方が上だ」というような記述を日記に記述していたことが発覚して制裁を受け、関が記述した日記が全生徒の見世物にされたこともあった[7]。しかし、繁子の件で制裁を受けた場合を除けば、料亭での芸者遊びによって芸者にあまり関心を持たなかったのを例として[8]、一見して異性に対する関心は無かったようだという[5]。それでも、海軍兵学校卒業後に水上機母艦「千歳」に少尉候補生として配属されていた時、渡辺エミ子という鎌倉で有名な医者の娘から慰問袋を送られ[注釈 1]、その礼状に「横須賀に帰ったら直接会ってお礼したい」と記述していた[1]。その後、関が横須賀へ戻った際に約束していた出会いは実現するものの、関はエミ子ではなく、同行していたエミ子の姉に一目惚れする[9]。その姉こそが、のちに妻となる渡辺満里子である[9]。
その後、1943年に霞ヶ浦海軍航空隊へ入隊[10]すると海軍中尉に任官[11]し、1944年には練習航空隊課程(艦上爆撃機)を修了して霞ヶ浦海軍航空隊で飛行教官に就任[12]、1944年5月1日には海軍大尉へ進級した[11]。
同年5月31日、関は福永恭助退役海軍少佐夫妻の媒酌のもと、渡辺満里子との結婚式を水交社で執り行った。[11][注釈 2]。その後は台南海軍航空隊に転任し、9月25日付で第二〇一海軍航空隊に赴任する[12]。そして、10月12日から10月16日の台湾沖航空戦で戦死した鈴木宇三郎海軍大尉の後任として、戦闘三〇一飛行隊長となった[12]。
体当たり攻撃隊編成
1944年10月17日、第一航空艦隊司令長官(予定者)の大西瀧治郎中将[注釈 3]はマニラに到着し、前任の寺岡謹平中将と事務の引継ぎを終えた後、同年10月18日には参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る[13]。それによって、大西は一航艦司令部で第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐に戦局の説明を行った後、副官の門司親徳大尉を伴ってマバラカット飛行場に向かう[14]。夕刻近くにマバラカットに到着の後[15]、指揮所に二〇一空副長・玉井浅一中佐、一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する[16]。大西と入れ違いにマニラへ向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した二〇一空司令・山本栄大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・小田原俊彦大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた[17]。しばらくして玉井が体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った[18]。
玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると[18]、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。すなわち、隊員は第十期甲種飛行予科練習生から選出して、これは玉井が第二六三海軍航空隊時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲十期生に一花咲かせようという魂胆からだった[19]。二〇一空にいた甲十期生は63名で[20]、体調不良だったり日本へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした[21]。指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった[22]。
猪口の構想では、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野も日本へ航空機受領に行っていて不在だったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している[12]。猪口の賛成を得た玉井は、就寝中の関を起こし、体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」ことを涙ぐみつつ告げた[23]。関はしばらく間を置いた後、「ぜひ、私にやらせて下さい」と承諾した[23][注釈 4]。
猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガーだったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えている[24]。玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「
突入まで
仲間と雑談し、特攻前にお酒を飲んだ。
10月20日
最初の特攻隊である第一神風特別攻撃隊は、本居宣長の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、各隊3機ずつ配分された。この四隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された[26]。10月20日の第一神風特別攻撃隊編成の時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた[26]。「敷島隊」のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった[26]。同日朝、関と敷島・大和・朝日・山桜の各隊員と直掩隊員が二〇一空本部前に整列し、大西が隊員の前に現れて訓示を述べた握手を行った後、関と敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場それぞれ移動して出撃の時を待つ事となった[27]。午後になって大西はマニラに戻ったが、その前にマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わしたり雑談を行った後、マニラに向かった[25]。また、大和隊(隊長・久納好孚海軍中尉(法政大学出身))は20日夕方に二〇一空飛行長中島正少佐に率いられセブに移動していった[28]。
10月20日、関の下に一人の訪問者が来る。訪問者は同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政である[29]。小野田はまず、関の談話を取ろうと関の部屋に入ったが[30]、前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴った[30]。小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めたが、森本忠夫はこの行動を「異常な心的状況の中に身を置いていた」[31]が故の「異常な行動」とする[30]。少し後、関と小野田は外に出て、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で語り合う。その際、関は小野田に対して次のように語った。
この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満と解釈され[32]、後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言とし[31]、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言と森本は解釈している[31]。発言の真意はさておき、関は宿舎で満里子宛およびサカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した[33]。また、この日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けた[33]。10月20日は、敵艦隊発見の情報なく暮れていった[28]。
10月21日から24日
10月21日朝、一〇〇式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見し、これを報じる[28]。敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する[34]。この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼任するようになり、「敷島隊」も永峰肇飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられて総勢5名となった[35]。関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した[35][注釈 5]。日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別とこの日の出撃を組み合わせた映像が、日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」として公開された[36]。マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに引き返した[37]。関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した[38]。
この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった[39]。予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した[40]。しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日「本人の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定された」[41]。久納は特攻隊の「戦死者第1号」となったが、この事については改めて解説する。
10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動[42]した。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた[43]。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという[44]。
10月25日
10月24日、大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる[44]。「敷島隊」には戦闘三一一飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した[45]。10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する[46]。途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる[47]。10時10分にレイテ湾突入を断念して引き返す栗田艦隊を確認した後[47]、10時40分に護衛空母5隻を基幹とする[注釈 6]第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)を発見して突撃機会を伺い、10時49分に僚機と共に突入して戦死した[48]。享年23。
戦果
「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるために超低空で飛び、至近距離まで近寄った後に雲間へ隠れて様子を伺い、10時49分に攻撃を開始した。1機はキトカン・ベイの艦橋を掠めて飛行甲板外の通路に命中[49]、カリニン・ベイには1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した[50]。ホワイト・プレインズを狙った1機は、被弾による操縦不能によって狙いが外れて艦尾至近の海中に突入[51]、セント・ローにはホワイト・プレインズに向かっていた2機のうちの1機が針路を変えて突入し、格納庫で爆発した爆弾により激しく炎上したセント・ローは、11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した[52]。
デニス・ウォーナー[注釈 7]によれば、「セント・ロー撃沈の栄光は日本の多くの著者たちにより、関大尉に与えられている」[53]。しかしウォーナーは「日本の多くの著者」の主張を採用せず、関は「カリニン・ベイ」に突入したとする[54]。金子は突入時刻やアメリカ側が撮影した写真などから、関が突入したのはカリニン・ベイではなく「キトカン・ベイ」であると主張している[55]。しかし、結論から言えば「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である[56]。
関に先んじる特攻隊の「戦死者第1号」である久納の戦果については、連合軍側の記録でその突入がオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」の損傷に結び付けられており[57]、事実なら敵艦に突入した神風特攻第1号となる。しかし、出撃時刻と損傷時刻がかけ離れる[注釈 8]など疑問視する意見があり、また「オーストラリア」を攻撃したのは陸軍飛行第65戦隊あるいは飛行第66戦隊の九九式襲撃機で、被弾の後「体当たり」したという資料もある[58]。
いずれにしても「敷島隊」による特攻は「異例の大戦果を挙げた」と喧伝され、その後の特攻推進を決定づけた。
公表戦果
特攻隊の「戦死者第1号」は、前述のように大和隊長の久納である。また、突入順を時系列で並べると、関は「戦死者第9号のち第8号」から「戦死者第13号のち第12号」ということになる。「敷島隊」に先立つ事約1時間前、ダバオから「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」が出撃し、7時40分に第77.4.1任務群(トーマス・L・スプレイグ少将)に突入して護衛空母「スワニー」に滝沢光雄一飛曹機が、「サンティー」に加藤豊文一飛曹機が命中している[59]。「第2号」から「第8号のち第7号」の内訳のうち6名のち5名はこの攻撃によるもので、残る1名は10月23日に「大和隊」で出撃して消息を絶った佐藤馨上飛曹である[60]。1人減っているのは、「朝日隊」の磯川質男一飛曹が当初「特攻で戦死」と発表されたものの、後に取り消されたからである[注釈 9]。このことから、「敷島隊」は出撃時刻で約1時間、攻撃時刻で約3時間、戦死者が出るまでに至っては4日も遅れをとったことになる。「敷島隊」の戦果は西沢が確認してセブに帰投後、中島に戦果報告を行っているが[61]、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の戦果もまた、「菊水隊」直掩の塩盛実上飛曹が確認して、やはりセブにて中島に報告されている[62]。
ところが、10月28日15時に公表された特攻最初の戦果は「敷島隊」のものだけで、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」の戦果と久納の突入、佐藤の消息不明はこの時点では一切無視された。このことは戦後になってからミステリーとして騒がれた[63]。10月28日の公表の時点で「敷島隊」以外が無視された真相は未だ不明だが、金子敏夫[注釈 10]は以下のような推測をしている。以下は金子の推測の要約である[64]。
- 菊水隊直掩の塩盛から中島に伝達された戦果情報は、9時48分にダバオの第六十一航空戦隊に伝えられたが、「朝日隊」「山桜隊」の戦果については定かでは無かったため同日夕方まで待った後、19時6分に一航艦へ報告を行った。第六十一航空戦隊は後方支援部隊のため、作戦部隊の状況判断に欠けていた。
- 一方、敷島隊直掩の西沢から中島に伝達され、12時5分に一航艦へ打電された戦果情報は「疑問の余地なく上層幹部も予想していなかった大戦果」だった。
- 敷島隊のみ、隊員全員の戦闘状況が明確だった。
- 関が最初に指名された特攻隊全ての総指揮官で、かつ先頭に立って突入した。
- 大日本帝国陸軍最初の特攻隊である「万朶隊」がフィリピンに進出しており、報道において一種の「先陣争い」があった。
最初に突入した久納、消息を絶った佐藤、そして「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」について連合艦隊布告が出されたのは、11月13日になってからのことだった[65]。また、報告に関するタイムラグに関して、中島が何かしら証言を残した形跡はない[66]。
戦後
戦中に軍神と称えられ、軍国主義の宣伝材料に使われたことが敗戦後の世相の中で仇となり、関や遺族は終戦後は一転日陰の存在となったほか、遺族には国からの扶助などが行われなかった。関には子供が存在せず、妻の満里子は戦後に再婚した[67]。母・サカエは草餅の行商で生活し、後に石鎚村立石鎚中学校に学校用務員として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさんの関おばさん」と呼ばれて親しまれたが、1953年11月9日に用務員室で57歳で急死して[3][67]関家は断絶した。
サカエの没後、伊予三島市(現・四国中央市)の村松大師に関の墓が建立され[3]、1975年には関の慰霊と平和祈願のため、源田実の発願によって西条市の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された[3]。毎年10月25日には、関が敵空母に突入した午前10時に海上自衛隊徳島航空基地か、小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。また靖国神社には関の遺影が祀られている。
遺書
父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。 本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に
満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る 何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々と思出をたどりながら出発前に記す 恵美ちゃん坊主も元気でやれ
教へ子へ 教へ子よ散れ山桜此の如くに
脚注
注釈
- ↑ 慰問袋は「初期は戦地の個人宛に送ったものの」「次第に不特定の相手に送ることが多くなってきた」(#町田p.68)。渡辺エミ子が関宛に送ったのか、それとも送られた先が偶然にも関だったのかは不明。
- ↑ この結婚は海軍大臣の許可を得たもので、同年5月11日に婚姻願を提出して5月26日に許可が下りている(#ウォーナー上p.146)。
- ↑ 親補10月5日、着任10月20日(#金子p.26)
- ↑ なお、「深夜、大西や飛行長中島少佐たちの前で突然隊長指名を受けた関は、頭を抱えて考え込んだという。彼は即答を避けて一晩悩んだ末、翌日になってようやく承諾した」という説が流布しているが(副長の玉井浅一が戦後に明かした話。一昔前の文献では、戦意昂揚の為に作られた神風最初の特攻 最初の特攻 隊長関行男大尉中島正/猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』 ISBN 4-7928-0210-5などの、しばらくの沈黙の後、「承知しました」と即答し、自室に戻って遺書を書いたというように書かれている。この著者は関の上官であるが史実に脚色もある)、時間的に有り得ない(森史朗『敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯』光人社、1987年(文春文庫、2003年))。
- ↑ このうち、谷機はエンジントラブルで発進できなかった(#金子p.88)
- ↑ 当初は6隻だが、6隻のうち「ガンビア・ベイ」は栗田艦隊の砲撃により沈没
- ↑ 第二次世界大戦中は新聞記者として活躍、沖縄戦において特攻攻撃により負傷して帰還を余儀なくされる。戦後はロイター東京支局長を務める一方、朝鮮戦争などアジア地域の戦争を取材し、オーストラリアの軍事雑誌「パシフィック・ディフェンス・レポーター」の編集者を務めた(#ウォーナー上カバー)。
- ↑ 「大和隊」の出撃は10月21日16時25分、「オーストラリア」の被弾は同日朝(#ウォーナー上pp.167-173)
- ↑ 。磯川は戦死取り消し後に日本へ帰還する間際、要務士から「磯川、貴様は特攻で死んでもらわなければならない」と一喝されて帰還が遅れるも、後に分隊士の要望を受けた玉井の尽力で日本に帰還した。帰還後は第343海軍航空隊に配属され、1945年5月28日に戦死(#金子pp.180-182, p.222)。
- ↑ 海軍兵科予備学生として海軍兵学校に入校後、予科練などの教官を務める。終戦後は東京工業大学を卒業し、管制装置やロボット制御装置の研究開発に従事する。工学博士(#金子カバー)。
出典
参考文献
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関連項目
- 大日本帝国海軍軍人一覧
- 殉職
- 神風特別攻撃隊
- 菅野直 - 海軍兵学校時代に関と同期だった。
- 航空兵#海軍