野澤正平

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テンプレート:Infobox 人物 野澤 正平(のざわ しょうへい、1938年4月3日 - )は、日本の実業家である。1997年平成9年)に廃業した山一證券の最後の社長として知られる。

人物

長野県出身。長野県屋代東高等学校を経て、法政大学経済学部卒業後、山一證券に入社。

1997年平成9年)7月に山一證券の社長に就任したが、その僅か4ヵ月後の同年11月に廃業に追い込まれた。その記者会見の席で「社員は悪くありませんから!」と号泣する野澤の姿は繰り返し報じられた。

山一證券の清算後には日産センチュリー証券社長およびユニコムグループホールディングス取締役副会長を歴任。その後は営業や経営の経験に基づき山一證券出身の企業家等の指導・教育をしているほか[1]、ピーアールコンビナート株式会社が主催する「評判づくり研究会」の運営顧問およびブレーン(マーケティング分野担当)を務めている。

生い立ち

長野県長野市川中島付近の農家に8人兄弟の4番目として生まれる[2]

高校卒業後には、家庭の経済的な事情もあり3年間家業の手伝いをして働いた。その後法政大学経済学部に入学し、苦学の末卒業した。

証券マンとして

法政大学を卒業した1964年昭和39年)4月に山一證券入社。証券業界を選んだ理由は「やったらやっただけ認めてくれる業種は証券しかない」[2]と思っていたためで、その中でも山一は当時から外資と結びつきが強かったから選んだという。

その後、1990年平成2年)6月より金融法人本部副本部長、1994年平成6年)4月からは常務取締役名古屋駐在兼名古屋支店長、1996年平成8年)4月には専務取締役大阪店長を歴任。1997年平成9年)8月に代表取締役社長に就任した。

山一最後の社長

野澤は社長に就任してから初めて、山一證券が2,600億円という巨額の違法簿外債務を抱えていること知った。前社長・三木淳夫と前会長・行平次雄の二人は、自らが傷口を決定的に広げた問題の尻拭いを野澤らに押し付けてさっさと遁走してしまったのである。

しかしながら、野澤ら新経営陣は当初、廃業という選択は考えておらず、事業を整理縮小してでも会社を存続させる方針であった[3]

莫大な簿外債務の存在を知らされた野澤らは週明け月曜日(簿外債務の存在を知らされたのは8月16日の土曜日)ただちにプロジェクトチームを発足させた。外資との提携や、規模縮小などで会社の存続を図ったが、この問題はそもそも野澤が知らされた時点でもはや手に負える様なものではない致命傷であった。株価の下落は止まらず、銀行の支援も得られず、最後には大蔵省にも見放される形で自主廃業を決定せざるを得なかった。野澤が社長に就任してわずか3ヶ月での廃業決断だった。

1997年平成9年)11月24日月曜日は振替休日で休業日だったが、午前6時から臨時取締役会が開かれ自主廃業に向けた営業停止を正式に決議。そして同日午前11時半、東京証券取引所において行われた自主廃業を発表する会見の場で野澤は、「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから! どうか社員に応援をしてやってください。優秀な社員がたくさんいます、よろしくお願い申し上げます、私達が悪いんです。社員は悪くございません」と頭を下げ号泣しながら社員をかばったことがテレビで大々的に放送されて注目された。

大小を問わず日本の企業では、自社の不正行為が発覚した際に記者会見等で無責任な発言を繰り返すなどして誠意のない対応で醜態を晒す経営トップが多い中にあって、その経営トップが率先して行った誠実な謝罪として、今や伝説に残る記者会見にもなった。また、三洋証券拓銀をはじめとする金融機関が立て続けに破綻したこの時代を象徴する映像としても有名な会見である。

野澤はこのときの涙の意味について、「一つは、オリンピックなどでスポーツ選手が見せる、がんばったけど駄目だったという悔し涙。私も社長として、100日間がんばったけど、力が及ばずに、ああなってしまったという悔し涙」、「そして、もう一つの意味は、山一證券に在籍した7,700人の従業員、関連グループ会社を含めて1万人、さらに彼らの家族を含めた3万人がこれで路頭に迷ってしまう。なんとか助けてもらいたいと訴える涙」、「気持ちとしては、後者の方が強かった。なんとか社員が路頭に迷うことは避けたい。それには涙で訴えるしかない。この気持ちが7割から8割を占めた」と述べている[3]

山一の破綻によって多数の従業員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害を及ぼした。にも関わらず、山一では歴代社長職に東大や一橋大の出身者が就任していたこともあり、その学閥でない法政大学出身の野澤の男泣きは、野澤だけではなく山一の一般社員に対する世間の同情を大いに集める結果となり、野澤や社員の再就職に際しては大いに貢献し、全社員が応じても余りあるほどの求人を受けたという[3]

簿外債務事件に関与していなかったため訴追されることはなかった野澤は、自主廃業の業務に追われる傍ら、自ら社員の履歴書を持って求職活動をするなどした。このような経緯やその人柄もあって当時の社員からは未だに大変な尊敬や信頼を受けており、現在でもしばしば交流を行っているという。

野澤は、1999年平成11年)6月の山一證券破産宣告をもって、「最後の山一社長」としての使命を終えた。山一證券勤続35年となった。

その後の活動

2000年平成12年)3月、名古屋支店長時代に上場を勧めた事があるコンピュータ周辺機器メーカーのハギワラシスコムの社長・河瀬翔之に要請されて同社の子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任。同社が推進するIP電話「ビットアリーナ」の普及に当たる一方、インターネットコンテンツ製作会社のデジタルガレージの顧問にも就くなど、一時はIT業界に身を投じていた。

2003年平成15年)4月には大木建設株式会社に特別顧問として入社した。

2004年平成16年)6月にセンチュリー証券(現・日産センチュリー証券)社長に就任、証券業界に復帰した。本人は消極的であったが、彼の人柄と叩き上げで培われた能力に対する評価は高く、強く請われての復帰となった。

2009年平成21年)6月で社長を退任してから表舞台に出る機会は減ったものの、その後も日本各地で行われる営業関係の企業向けセミナーの講師に招かれるなどして活動を続けている。2011年平成23年)7月に元山一証券金融法人第1部長、東岳証券株式会社代表取締役であった加藤正躬に強く請われて東岳証券株式会社の顧問に就任。2012年(平成24年)9月退任。

このほか、2010年平成22年)6月まで法政大学経済学部同窓会会長を務めている。

脚注

テンプレート:Reflist
  1. 株式会社アクティブレイン
  2. 2.0 2.1 http://nextwise.jp/topics/closeup/archives/117.html
  3. 3.0 3.1 3.2 日経BPnet - 新社長を直撃! センチュリー証券 その2〜山一證券の十字架を背負い続ける - 2004年8月31日付