近衛篤麿

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テンプレート:政治家 近衞 篤麿(このえ あつまろ、1863年8月10日文久3年6月26日) - 1904年明治37年)1月1日)は、明治時代後期の華族政治家。号は霞山近衛家五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓藤原

経歴

生い立ち

1863年文久3年)旧暦6月26日、左大臣近衛忠房島津斉彬娘(実は養女)・貞姫の長男として京都に生まれた[1]。ただし父忠房が1873年明治6年)に家督を継がないまま35歳の若さで病没したために、祖父近衛忠煕の養子という形で家督を相続した(文献によって、忠煕六男と記しているものもある)。1879年(明治12年)大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされた。以後は、和漢に加え、英語を独学する。1884年(明治16年)、華族令の制定に伴い公爵に叙せられる。1885年(明治18年)にドイツフランスの両国に相次いで渡り、ボン大学ライプツィヒ大学に学んだ。1890年(明治23年)に帰国し貴族院議員となる。1895年(明治28年)には学習院院長となり、華族の子弟の教育に力を注いだ。

ノブレス・オブリージュを自覚する

近衛篤麿は、自らの地位や身分と、それが社会の中でどのような姿であるべきかを、深く自覚していた。ヨーロッパの貴族社会を参考に、近代日本においても社会的に優越した立場にある華族が単に「皇室の藩屏」として存在するのだけではなく、政治や社会福祉などのより広範な分野で地位相応の役割を果たす義務を負うべきであること(ノブレス・オブリージュ)を早くから考えていたのである。そうした見地から、学習院の院長としては学習院が高い水準の教育機関であるようその組織を整備し、そのために必要な財源の確保と財務のあり方を確立することに尽力した。その学習院で学んだ華族の子弟が、やがては日本を支え、日本を世界に代表するような外交官や陸海軍人になることを望んだのである。

公家の中でも最高の家格をもつ五摂家筆頭の近衛家の当主である篤麿は、その出自とは裏腹に率直で剛腹な人となりで知られていた。貴族院の公爵議員として政治の世界に入った篤麿は、1892年(明治25年)から1904年(明治37年)まで貴族院議長の要職を担ったが、当時の藩閥政府には常に批判的な立場をとりつづけた。第一次松方内閣樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」を廻って紛糾し空転した衆議院を初めて解散して行われた第二回総選挙では、品川弥二郎内務大臣が中心となって行った極めて大規模かつ徹底した選挙干渉の結果、弾圧された民党側に死者25名・負傷者388名を出すという空前の惨事になったが、篤麿はこれをうやむやにすることを決して許さず、政府の姿勢を舌鋒鋭く追及し、さらに政党も猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと、当時の政治には批判的であり、松方正義、大隈重信山縣有朋伊藤博文からの入閣の誘いを全て断ってる[2]

アジア主義の盟主として活躍

近衛篤麿の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。1893年(明治26年)に東邦協会の副会頭に就任[3]。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。1898年(明治31年)1月に雑誌『太陽』第4巻第1号に載せた論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」で「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」と日本と中国は同文同種と主張して同年に同文会を設立したが、同文会は、犬養毅東亜会興亜会、東邦協会と善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。かくて、民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を企み、康有為との会談ではアジア・モンロー主義を主張した。東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一両江総督)や張之洞湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。

そうした中1900年(明治33年)6月、中国の華北満州(現在の中国東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文や山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。そこで近衛は犬養・頭山満陸羯南中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの近衛の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。また、1903年(明治36年)には玄洋社の頭山と平岡浩太郎黒龍会内田良平も名を連ねる対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。戸水寛人らの七博士建白事件にも関与していた[4]

小川平吉と頭山らが篤麿を首班にした内閣をつくろうとした中[5]1904年(明治37年)1月1日に死去。享年42(満40歳没)。中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因であった。近衛家菩提寺である大徳寺京都市北区)に葬られた。

死後、多額の借財があり、頭山や五百木良三ら国民同盟会のメンバーが債権者を退散させたこともある[6]

家族

  • 先妻:衍(さわ、前田慶寧五女、明治2年–明治24年)
  • 継妻:貞(もと、前田慶寧六女、明治4年–昭和20年)
    • 長女:武子(たけこ、公爵大山柏夫人)
    • 次男:秀麿(ひでまろ、音楽家、貴族院議員、子爵)
    • 三男:直麿(なおまろ、雅楽演奏家・研究者)
    • 四男:忠麿(ただまろ、水谷川家継嗣、春日大社宮司、貴族院議員、男爵)

著作

  • 近衛篤麿 著・近衛篤麿日記刊行会 編『近衛篤麿日記』第1~5巻・別巻 (鹿島出版会、1968~69年)

参考文献

  • 工藤武重『近衛篤麿公』(大空社、1997年) ISBN 4756804691
昭和13(1938)年刊の復刻版、解説付。

脚注

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外部リンク


先代:
蜂須賀茂韶
貴族院議長
第3代:1896年 - 1903年
次代:
徳川家達

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  1. 但し、島津家側の資料では「光蘭夫人(=貞姫) 篤麿養母」と書かれており、疑問もある。参考文献『日本の肖像』8巻「鹿児島・島津家」毎日新聞社
  2. 山田孝雄『近衞篤麿のこと : 私の欽仰する近世人』
  3. 安岡昭男「東邦協会についての基礎的研究」67頁
  4. 朴羊信『「七博士」 と日露開戦論』1998
  5. 『信州の人脈(上)』15頁
  6. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』49頁