越智松平家

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テンプレート:日本の氏族 越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の一支系で、親藩御家門のひとつ。

江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、上野国館林藩、のち石見国浜田藩の藩主家として続いた。通字は「」(たけ)。

概要

清武は甲府藩徳川綱重甲府徳川家)の次男であるが、はじめ甲府藩士越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた。のちに松平の名乗りを許されて越智松平家が成立する。5代将軍徳川綱吉の晩年の1707年に館林藩主として取り立てられ、兄家宣が6代将軍となると5万4千石まで加増された。清武の子清方は父に先立って没したため、尾張徳川家連枝美濃高須松平家から養子武雅を入れた。武雅も水戸徳川家連枝府中松平家から武元を養子に入れ、越智松平家は以後は実質的に水戸家の血統(徳川頼房の男系子孫)によって占められることになった(その後に養子入りした武揚武成武聰の3代の当主も該当する)。

武元の家督相続後すぐに陸奥国棚倉藩に移されるが、間もなく館林に戻る。武元はまた、通常は譜代大名が就く幕府の役職にも親藩ながら就いており、最終的には老中首座を務めた。続く2代も奏者番寺社奉行といった幕府の役職に就いている。

1836年、5代武厚(斉厚)の時代に越智松平家は石見国浜田6万1千石に移され、ここで所領の固定をみる。しかし第二次長州征討のとき、長州藩兵に敗れて浜田を奪われ、居所を美作国鶴田に移した。廃藩置県後は華族に列し、子爵を授けられた。

系譜

太字は当主、実線は実子、点線(縦)は養子。

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