諏訪頼忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士 諏訪 頼忠(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将

生涯

天文11年(1542年)、諏訪氏の当主である従兄頼重武田信玄の諏訪侵攻で自害し、諏訪惣領家は断絶した。父・満隣が信玄に降伏し(諸説あり)、兄の頼豊が後に信玄に仕えるようになると、頼忠は諏訪大社大祝として信玄に仕えた[注釈 1]

天正10年(1582年)、織田信長甲州征伐武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、信濃高島城に入って諏訪氏の家督を継ぎ[1]、信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[1]再起を図った。しかし12月、家康の信濃平定軍に敗れて和睦[1]の形で臣従し、翌天正11年(1583年)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった[1]

天正18年(1590年)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵に所領を与えられた。文禄元年(1592年)には上野総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた[1]

脚注

注釈

  1. 頼忠は流浪したとする説もある。

引用元

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E6.88.A6.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E5.90.8D.E4.BA.8B.E5.85.B8440」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません

参考文献

テンプレート:諏訪氏当主 テンプレート:総社藩主