藤原朝狩

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藤原 朝狩(ふじわら の あさかり、生年不詳 - 天平宝字8年9月18日764年10月21日))は、奈良時代公卿氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。名は朝猟朝獦とも記される。藤原南家大師藤原仲麻呂の四男。母は新田部親王の娘・陽候女王藤原宇比良古が母という説もある)。官位従四位下参議

経歴

父の仲麻呂は孝謙天皇の信任厚く、天平宝字元年(757年)仲麻呂の推す大炊王が皇太子になり、紫微内相(大臣に准じる)に任ぜられると、朝狩は従五位下陸奥守に叙任される。

その後は、父の立身とともに朝狩ら兄弟も昇進していく。天平宝字2年(758年)孝謙天皇が譲位して、仲麻呂が推す大炊王が即位淳仁天皇)すると、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられて恵美押勝の名を与えられ、朝狩ら兄弟も同様に藤原恵美朝臣姓に改姓する。天平宝字3年(759年)朝狩は二階昇進して正五位下へ進み、陸奥鎮守将軍にも任ぜられる。天平宝字4年(760年)仲麻呂が太師(太政大臣)に任ぜられると、朝狩も陸奥国において、荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城を完成させた功績が認められ、従四位下に叙され、同年には仁部卿東海道節度使に任ぜられる。そして、天平宝字6年(762年)仲麻呂が正一位に昇叙されると、朝狩は兄の真先訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子4人が同時に公卿に列する異例の事態になった。

位人臣を極め栄耀栄華を誇った仲麻呂一族だが、孝謙上皇が道鏡を寵愛するようになる。仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる。

天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚。孝謙上皇側に先手を打たれたために仲麻呂一族は平城京を脱出し、朝狩もこれに従う。仲麻呂が長年国司を務めた勢力地盤である近江国の国衙に入って再起を図ろうとするが、官軍に先回りされてこれを阻まれた。やむなく仲麻呂一族は八男・辛加知国司を務める越前国を目指すが、官軍が越前国衙へ急行して、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、国境の関を固めてしまう。仲麻呂一族は近江国高島郡に退き、三尾の古城に拠って官軍に抵抗するが敗れ、朝狩を含む仲麻呂一族はことごとく殺された(藤原仲麻呂の乱)。

参考文献

  • 薗田香融「恵美家子女伝考」(『日本古代の貴族と地方豪族』、塙書房、1992年)
  • 木本好信『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』、高科書店、1993年。

関連項目