紀元前430年

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テンプレート:Yearbox 紀元前430年は、ローマ暦の年である。当時は、「クラッススが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元324年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前430年と表記されるのが一般的となった。

できごと

ギリシア

  • スパルタ軍が再びアッティケーを荒らし回ったが、ペリクレスはこれにひるまず、当初の戦略を変更しなかった。ペリクレスはスガルタ軍との地上戦を避け、再びペロポネソス半島沿岸を海から襲うべく、今回は艦隊の規模を100隻ほどに増強し、海路での遠征を行なった。
  • アテナイに攻城戦を仕掛けられていたポティダイア (Potidaea) が、冬場になって遂に降伏した。
  • アテナイで疫病が発生し、人口密度が高かったこの都市で猛威を振るった(古代の墓から得られた検体による現代のDNA分析から、この疫病はチフスと推定されている)。3万人以上の市民、船員、兵士が死に、ペリクレスの2人の息子も犠牲となった。アテナイの人口の概ね4分の1ほどが、この疫病で死んだ。この疫病の広がりを恐れたスパルタ軍は、兵士たちが病に冒された敵軍と接触することを嫌ったため、アッティケー侵略を放棄して撤退した。
  • ペリクレス自身も罹患したが、一時は回復を見せた。ペリクレスは将軍職を一旦解かれたが、後に再任された。

芸術

誕生

死去

出典・脚注

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