ローマ暦

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ローマ暦(ローマれき)は、古代ローマで使用されていた暦法。狭義には、古代ギリシア太陰暦を元にしてつくられた暦法を言う。ローマ建国紀元とは異なる。広義には、その後使用されたユリウス暦もローマ暦に含める。さらに広義には、ユリウス暦を改変して使用されたグレゴリオ暦も含む。本項では、ユリウス暦より以前のローマ暦について述べる。

最初期のローマ暦

紀元前753年(紀元前745年説あり)、最初のローマ暦が古代ローマで採用された。この暦法は、ローマを建国したとされる王ロムルスの名をとり、ロムルス暦と呼ばれる。3月から始まり12月で終わっていた。各月の名称と日数は次のとおり。

  • Martius (マルティウス、31日)
  • Aprīlis (アプリーリス、30日)
  • Māius (マーイウス、31日)
  • Jūnius (ユーニウス、30日)
  • Quīntīlis (クィーンティーリス、31日)
  • Sextīlis (セクスティーリス、30日)
  • September (セプテンベル、30日)
  • Octōber (オクトーベル、31日)
  • November (ノウェンベル、30日)
  • December (デケンベル、30日)

1年の長さは304日で、12月30日と3月1日の間に、日付のない日が約61日間続いた。農耕暦だったので、畑仕事のない季節に日付は必要なかったとされる。当時のローマ人は1年の長さが約365日であることを知らなかったため、日付のない日は厳密に61日間ではなく、春めいてきた日に王が新年を宣言するという形をとったと考えられる。

紀元前713年、ローマ国王ヌマ・ポンピリウスによって改暦が行われ、Jānuārius(ヤーヌアーリウス、29日間)、Februārius(フェブルアーリウス、28日間)がつけ加えられた。このときヌマは、日数が30日だった月の日数をすべて29日に変えた。平年の1年の長さは355日になる。2年に1度、2月の日数を23日に減じ、2月23日の翌日に Mercedinus(メルケディヌス)という名の27日間または28日間の閏月を挿入した。この時期はまだ年始は3月1日であった。この暦法は、布告した王の名をとりヌマ暦と呼ばれる。ほとんどの月の日数を29日と31日にしたのと、1年の長さを月の運行に合わせた354日にしなかったのは、ヌマの信仰が偶数を嫌ったからだとされている。

  • Martius (31日)
  • Aprīlis (29日)
  • Māius (31日)
  • Jūnius (29日)
  • Quīntīlis (31日)
  • Sextīlis(29日)
  • September (29日)
  • Octōber (31日)
  • November (29日)
  • December (29日)
  • Ianuarius/Jānuārius (29日)
  • Februārius (28日)

ロムルス暦とヌマ暦で決められた月名は、後に改名されたQuīntīlisSextīlis、および後のユリウス暦では必要のなくなったMercedinusを除き、語形変化を被りつつも、ほぼそのまま英語等の現代語にまで受け継がれている。また、QuīntīlisからDecemberまでの月名は、ラテン語数詞5-10(quīnque, sex, septem, octō, novem, decem)に由来し、第5月から第10月を意味する。月の順序と月名との間にずれが生じたのは、後述の紀元前153年の改暦による。

ローマ暦の日付の数え方

ローマ暦では今のように「1月5日」というような日付の呼び方はしなかった。各月に3つずつ、特別な日があって、それぞれ、

  • Kalendae (カレンダエ):月の最初の日。その月の Nōnae がいつであるかを宣言する日であり、「宣言する」という意味のラテン語の動詞 calāre/kalāre に由来する。また、暦をカレンダーというのは、これに由来する。
  • Nōnae (ノーナエ):月の第5日または第7日。Īdūs から数えて(後述するように Īdūs も含めて)9日前であり、「第9の」を意味するラテン語の序数詞 nōnus の語尾変化形そのものである。
  • Īdūs (イードゥース):月の第13日または第15日。この語の由来ははっきりしないが、Nōnae の8日後であり、「第8の」を意味するエトルリア語に由来するとの説がある。

と呼ばれた。ただし、ローマ暦の1ヶ月は、太陰暦と違い、月の運行とはずれているため、ノーナエ、イードゥースは実際には本当の半月、新月とはならない。この3つの基準日を元に、それぞれの日の名前が決まる。

小の月のノーナエは第5日、イードゥースは第13日だった。具体的には1月、2月、4月、6月、8月、9月、11月、12月。

大の月のノーナエは第7日、イードゥースは第15日だった。具体的には、3月、5月、7月、10月。

9月1日は、9月のカレンダエ、9月5日は9月のノーナエと呼ばれた。

その他の日付の呼び方も現代とは異なる。ローマ暦は基本的に逆算式だった。具体的には、9月2日は「9月のカレンダエの翌日」や「9月2日」とは呼ばれず、「9月のノーナエの4日前」と呼ばれた。9月の例を1日から30日までを次に列挙する。

ローマ暦での9月各日の名称

  • 9月1日:9月のカレンダエ
  • 9月2日:9月のノーナエの4日前
  • 9月3日:9月のノーナエの3日前
  • 9月4日:9月のノーナエの前日
  • 9月5日:9月のノーナエ
  • 9月6日:9月のイードゥースの8日前
  • 9月7日:9月のイードゥースの7日前
  • 9月8日:9月のイードゥースの6日前
  • 9月9日:9月のイードゥースの5日前
  • 9月10日:9月のイードゥースの4日前
  • 9月11日:9月のイードゥースの3日前
  • 9月12日:9月のイードゥースの前日
  • 9月13日:9月のイードゥース
  • 9月14日:10月のカレンダエの18日前
  • 9月15日:10月のカレンダエの17日前
  • 9月16日:10月のカレンダエの16日前
  • 9月17日:10月のカレンダエの15日前
  • 9月18日:10月のカレンダエの14日前
  • 9月19日:10月のカレンダエの13日前
  • 9月20日:10月のカレンダエの12日前
  • 9月21日:10月のカレンダエの11日前
  • 9月22日:10月のカレンダエの10日前
  • 9月23日:10月のカレンダエの 9日前
  • 9月24日:10月のカレンダエの 8日前
  • 9月25日:10月のカレンダエの 7日前
  • 9月26日:10月のカレンダエの 6日前
  • 9月27日:10月のカレンダエの 5日前
  • 9月28日:10月のカレンダエの 4日前
  • 9月29日:10月のカレンダエの 3日前
  • 9月30日:10月のカレンダエの 前日
  • 10月1日:10月のカレンダエ

ローマ人は基準日も含めて日数を数えたので、「10月のカレンダエの3日前」は、10月のカレンダエの前前日にあたる。同じ理由で「2日前」という表現がない。また、基準日の前日を示す単語は、今でいう「クリスマス」につける「イブ」のような、特別な冠詞がついた。このようにローマ暦が逆算式だったのは、各月のカレンダエ、ノーナエ、イードゥースの日に、市が立ったり祭事その他催しがあったりしたため、「次の基準日まで何日」という数え方のほうが使いやすかったためである。前日が特別な呼ばれ方をしたのは、祭事の準備などを行う特別な日だったため、特別な名がついたと考えられる。

末期のローマ暦

この後も数度、改暦が行われた。最も大きな改暦は紀元前153年1月1日に行われた。この年から、年の始まりが3月1日(MartiusKalendae)ではなく、1月1日(JānuāriusKalendae) に移った。このとき、月の順序と月名との間にずれが生じた。

紀元前46年まで使われていた最終期のローマ暦は、1年は12か月、355日だった。年始は1月1日であった。1月から順にそれぞれの月の日数は次のとおり。

  • 29,28,31,29,31,29,31,29,31,29,29,29

平年の1年の長さは355日で、2年に1度、2月23日と2月24日の間に22日間または23日間の閏日を挿入した。閏年の1年の長さは377日または378日になる。閏日が2月23日の翌日におかれるのは、初期のローマ暦が閏年の2月の日数を23日に減じたことに由来する。なお、最終期のこの暦法もヌマ暦と呼ばれている。

閏日の挿入は最高神祇官の職責であったが、この官職の職務は軽視されがちであり(当時のローマの神祇官は専門の神官ではなく、選挙で選ばれる一種の名誉職であった)、規則どおり閏日を入れないことがしばしばあった。政治的な理由で、1年の長さを恣意的に操作するため、閏日を挿入したりしなかったりすることもあった。そのため、暦の上の日付と季節がまったく合致しなくなった。末期には90日のずれを生じた。このため、ガイウス・ユリウス・カエサル紀元前46年にローマ暦を廃し、翌紀元前45年からユリウス暦を採用した。カエサルは、前述の90日分を補正するため、紀元前46年の日数を445日とした (355+90) 。記録に残る限り、最も1年の日数が長い年はこのローマ暦での紀元前46年である。カエサルはこの年をultimus annus confusionis(最後の混乱の年)と呼んで自らの功績を誇ったが、ローマ人達は単にannus confusionis(混乱の年)と呼んで皮肉ったという。

曜日の名

現在の七曜日もローマ暦の途中から使用されるようになった。7つの曜日の名は次のとおり。かっこ内は読みと日本語での意味である。

マルス、メルクリウス、ユピテル、ウェヌス、サトゥルヌスはすべてローマ神話の神の名で、それぞれ火星水星木星金星土星と同一視される。

ローマ暦での年の数え方

最初のころはそれぞれの年に番号をつけることはしなかった。必要なときは、毎年年初に就任する2名の執政官の名前を並べて呼んだ。執政官は共和政における最高の役職であり、共和政ローマの元首でもあった。

共和政末期になってから、紀元前753年のローマ建設からの通算年である、A.V.C.という年号が使われた。当時はUVは同じ音価を持っていたので、A.U.C.と書かれていることもある。

さらに後、ユリウス暦時代になってから、皇帝ディオクレティアヌス284年即位)からの紀元である「A.D.」が使われた(ディオクレティアヌス紀元)。A.D. は、我らの主の年、という意味の略語である。この「A.D.」は現在のキリスト紀元の「A.D.」とは関係ないことに注意する必要がある。

インディクティオ

またディオクレティアヌスは、同時に297年9月から始まる会計年度「インディクティオ」を導入した。これは第15インディクティオまで進んで、15年後には、また第1インディクティオに戻るものである。

「西暦」の誕生と東ローマ帝国の暦法

6世紀ディオニュシウスは、キリスト教を迫害したディオクレティアヌスを起源とする暦年法は問題があるという理由で、A.D. の1年をキリストの生まれた西暦1年に変更した。しかしこれが一般に使われるようになるには時間がかかった。また、ディオニュシウスの計算は誤っており、A.D. 1年はキリスト生誕の年でないことにも注意する必要がある(今日では、キリスト生誕は紀元前4年と考えられている)。紀元前を表す B.C. の記号は、17世紀になってから始まった。

なお、宗教上の配慮から、A.D. を C.E. (Common Era, Christian Era) 、B.C. を B.C.E. (Before C.E.) と書くこともある。C.E. 1年は西暦1年と同義で、B.C.E. 1年は紀元前1年と同義である。(ちなみに、0年は今も当時も存在しない)

一方、東ローマ帝国では、6世紀まで執政官で年代を記していたが、541年には執政官制度が廃止されてしまった。このため、前述のインディクティオを用いるようにしたが、インディクティオは15年で一周するために、ただ「第3インディクティオ」といっても複数あって、長期に効力を発する法律や勅令、行政文書などには向かなかった。やがて皇帝の在位年数で数えるようになったが、結局これも定着せず、10世紀の皇帝レオーン6世の時代になると世界創造紀元(紀元前5509年に当たる年を神が天地を創造した年とし、これを元年とするもの)が採用されるようになり、インディクティオと併用されるようになった。世界創造紀元はロシアなどの正教会諸国でも近代に至るまで使用されていた。

ローマ暦の使用

古代ローマの建設年については、半ば伝説であることに注意する必要がある。また、古代ローマは都市国家であり、この暦は当初ローマ市内だけで使われた。ローマから遠い他のギリシャ諸国などでは独自の暦法を用いていたところもあり、ローマに征服され、ユリウス暦の時代になってもしばらくはそのままだった。

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