立飛企業

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立飛企業株式会社(たちひきぎょう)は、かつて存在した主に不動産賃貸業を営む日本の企業。本社は東京都立川市

前身は航空機メーカーである立川飛行機株式会社であり(1955年に立飛企業へ商号変更)、第二次世界大戦期までは主として帝国陸軍航空部隊を顧客とする軍用機を製造していた。通称は立川・立飛等。

関連会社に新立川航空機株式会社があり、株式を相互持ち合いしていた。2012年4月には持株会社である株式会社立飛ホールディングスが設立され、立飛企業は新立川航空機と共に事業部門別に再編成されている。

概要

ファイル:Nakajima Ki-43 Hayabusa "Peregrine Falcon".jpg
立川飛行機において約1,000機が転換生産された一式戦「隼」二型(キ43-II)[1]。後の三型(キ43-III)はほぼ全機(約1,500機)が立川によって量産されている

立川飛行機自体の前身は1924年に設立された株式会社石川島飛行機製作所(石川島飛行機)である。これは石川島重工業(IHIの前身)が中心となって出資設立されたものであった。設立当初は工場は現在の東京都中央区月島にあったが、1930年には立川陸軍飛行場のある立川市に移転。

石川島飛行機時代の1934年には、帝国陸軍の依頼を受け中等練習機を開発、これは九五式一型練習機として制式採用され[2]、その橙色の練習機塗装から「赤とんぼ」と親しまれつつ第二次大戦敗戦に至るまで陸軍主力中等(初等)練習機として使用された(主に民間機操縦者を養成する逓信省航空機乗員養成所においても使用)。

1936年には、工場所在地から立川飛行機株式会社(立川飛行機)に改称。中堅メーカーとして、ロッキードよりL-14 スーパーエレクトラライセンス生産権を購入・生産(ロ式輸送機)、九八式直協偵察機九九式高等練習機一式双発高等練習機等の開発・生産を行いつつ、大手の中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産を行っていた。また、太平洋戦争期には東京帝国大学航空研究所との協同で長距離飛行研究機キ77(A-26)や、独自設計の高高度戦闘機としてキ94-IIといった意欲作も手がけている。

太平洋戦争(第二次大戦)敗戦後、工場は連合軍に接収されたが、1949年には立川飛行機の出資によって第二会社であるタチヒ工業株式会社1951年立飛工業株式会社へ商号変更)を設立。航空一部再開によって航空機製造が再開され、1952年には戦後国産第一号機であるR-52軽飛行機(練習機)を開発、また立飛工業は新立川航空機株式会社(新立川航空機)へと改称した。新立川航空機は続いてR-53型軽飛行機も開発したが、いずれも時代遅れの技術であり量産には至らなかった。さらに、フランスから設計者を招いてR-HM型軽飛行機を開発したが、操縦が非常に難しい機体であり、やはり量産には至らなかった。

本家である立川飛行機は1955年立飛企業株式会社(立飛企業)に改称。1970年代中期以降、立飛企業は不動産賃貸部門を主力とする。1961年以降、東京証券取引所第2部に新立川航空機と共に上場していたが、2012年1月17日を期日としてマネジメント・バイアウト(MBO)を実施したため[3]、同年1月12日限りで上場廃止[4]。2012年4月に株式会社立飛ホールディングスを設立。

自動車産業の礎

連合軍による工場接収によって、従業員は事実上解雇された。1947年には外山保試作工場長やキ74田中次郎技師が中心となって「東京電気自動車(のち「たま電気自動車」、「たま自動車」に改称)を設立した。約200名が参加し、この時作られた電気自動車は日本の電気自動車の源流となった[5]

たま自動車は混乱期の変転を経て、プリンス自動車工業(プリンス自動車)となり、スカイライングロリアなどを開発・販売した。技術的には優れていたものの、経営難や通商産業省のメーカー整理統合政策等諸事情により、1966年日産自動車に吸収合併される形となった。

一方で、キ94の長谷川龍雄技師はプリンス自動車に参加することなく、トヨタ自動車工業(トヨタ自動車)に入社。クラウンコロナパブリカカローラなど日本を代表する自動車において主査をつとめた。

沿革

戦前

  • 1924年(大正14年)11月 - 株式会社石川島飛行機製作所を設立。
  • 1930年(昭和5年) - 工場を立川に移転。
  • 1936年(昭和11年) - 立川飛行機株式会社へ改称。

戦後

  • 1945年(昭和20) - 立川製造所が連合軍に接収を受ける。
  • 1949年(昭和24) - 第二会社たるタチヒ工業株式会社(のち新立川航空機株式会社)を設立。
  • 1952年(昭和27) - 航空一部再開。R-52型等を開発。
  • 1955年(昭和30) - 商号を立飛企業株式会社へ改称。
  • 1976年(昭和51) - 立川製造所が米軍から返還。以後、不動産賃貸が主力となる。関連会社の新立川航空機株式会社も不動産賃貸が主力であるが、暖房機、食器洗浄機、航空機部品、機械式立体駐車場などの製造、販売も行っている。
  • 2012年(平成24) - 上場廃止。同年、立飛ホールディングスが設立され、立飛企業及び新立川航空機を事業再編に伴い、新設分割された。

開発機

帝国陸軍

民間

脚注

  1. 本家の中島は約2,500機を生産。
  2. 同時期には初等練習機として九五式三型練習機も開発・採用されている。
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
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関連項目

外部リンク