矢部定謙

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矢部 定謙(やべ さだのり、寛政元年(1789年) - 天保13年7月24日1842年8月29日))は、江戸時代後期の旗本幕臣である。矢部定令の子。通称は彦五郎。位階は従五位下。官職は駿河守から左近衛将監に遷任し、駿河守に再任。戒名:晴雲山院殿秋月日高定謙大居士。荘照居成神社(そうしょういなり。山形県飽海郡遊佐町蕨岡上寺鎮座)の祭神として祀られる。墓所は東京都江東区平野日蓮宗法苑山浄心寺。

経歴

天保2年(1831年)に堺奉行、同4年(1833年)に大坂西町奉行となる。おりしも当時凶作に見舞われ、矢部は飢饉対策に努める。この時矢部は元与力で学者であった大塩平八郎と会合を持ったため、矢部と大塩が深い信頼関係にあったと見られていたが[1]、矢部が飢饉対策は大塩の意見とは食い違うものであった。このほか在任中には竹島事件の裁定を行っている。天保7年(1836年)に勘定奉行に就任するため江戸にうつった。

矢部の離任後間もない天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱が発生した。大塩が幕府に提出しようとした建議書8カ条のうち、6カ条は「国を乱す「奸侫」」である矢部を弾劾するものであったテンプレート:Sfn。この中では矢部が様々な不正を行い、口封じのために証人を殺害したとされているテンプレート:Sfn。しかし矢部がこの時点で処分されることはなかった。天保9年(1838年)からは西丸留守居となり、大御所徳川家斉に仕えた。

天保11年から、老中水野忠邦の主導により武蔵川越藩出羽庄内藩越後長岡藩三方領知替えが問題となっていた。天保12年(1841年4月28日に矢部は江戸南町奉行となり、老中の命により検証を行った。結果として領知替えの必要性を認めず、再吟味を具申した。翌年7月に転封は将軍徳川家慶の裁断により中止となった。定謙没後、出羽庄内藩復領の恩人として祭神に祀られる契機となる。また水野が推し進めた天保の改革に北町奉行遠山景元と協同して対抗する。当時の価格騰貴に対し、水野や藤田東湖らが株仲間の廃止を求めた際にも、一部の商人の華美な生活態度にも問題があるものの、物流上の様々な制約が最大の一因であり、急激な株仲間の廃止は、却って混乱を招いて人々を苦しめると主張した。

天保12年(1841年)12月、矢部は江戸町奉行を解任された。大坂町奉行時代の不正、江戸町奉行時代のお救い米買い付け事件の調査不正などが理由であったがテンプレート:Sfn、主因は水野と対立したために目付鳥居耀蔵の策謀により罷免されたと見られているテンプレート:Sfn。取調中に無実を友人に訴えたことが問題となり、同13年(1842年)、伊勢桑名藩預かりとなった。お預から三ヶ月後、矢部は病死した。抗議のため自ら絶食したという説もある。没後、株仲間の急激な廃止政策が経済界に混乱をもたらし、却って人々を苦しめる事になったために、定謙の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨ら幕末期の官僚からは、その非業の死を惜しまれる事になった。その後、改革の失敗と不正発覚により水野、鳥居は失脚、養子の鶴松が幕府への出仕を認められ、江戸幕府の幕臣旗本として矢部家は再興された。

人物

  • 剛直な性格で、若い頃、先輩が定謙をいじめようと弁当の残りでお粥を作ることを命じた。腹を立てた定謙は、お粥に灯明の油を入れて先輩に食わせ、大騒ぎとなった。このことが上司に知れて定謙は辞表を出したが、かえってその態度が立派であるとして許され、先輩が処罰された(現在のパワーハラスメント)。
  • オトコマエ!』の武田信三郎の父、勘定組頭・武田主税のモデルと見られるテンプレート:要出典(武田は部下・浜田と共に不正を告発しようとして、逆に横領をしたとの讒言を鳥居から受け、無実の罪を晴らせずに切腹している)。

江戸幕府役職履歴

脚注

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参考文献

  • 香原一勢「人を見,人の意見を聴く--矢部定謙と大塩平八郎の場合」(日本歴史 第199号)1964年12月発行
  • 小山松吉「矢部定謙」(「名判官物語」所収)人物往来社 1978年4月発行
  • 柳営補任(大日本近世史料)東京大学史料編纂所発行
  • 中村彰彦「天保暴れ奉行 気骨の幕臣 矢部定謙」実業之日本社(2007年5月発行)
  • テンプレート:Cite journal
  • 「矢部定謙」- コトバンク藤田覚執筆項
  • テンプレート:Cite journal

矢部が登場する作品

関連項目

テンプレート:江戸町奉行

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  1. 幸田成友『大塩平八郎』などテンプレート:Harv